文帝二年八月二十六日、漢帝国建国の功臣にして呂氏討滅、文帝擁立の最大の功労者であった右丞相周勃が官を辞任、左丞相陳平が丞相に昇進した。(単独の丞相職)
...引退にあたり、周勃と陳平は共に長安郊外に遊んだ。
それが約三十年の月日、漢帝国創建の為に共に戦ってきた二人の老雄の最後の交流となった。
「...卿とこうして会うのもこれが最後になるかもしれぬが...まあ、後は俺に任せて楽隠居生活を楽しめよ」
陳平の言葉に周勃は思わず笑った。
「卿こそ、もう歳だろうが。俺と一緒に引退したらどうだ」
「馬鹿を言え。やっと卿みたいな厄介な先輩が上座から消えて、俺一人が丞相として腕を振るえるんだ。俺はまだこれからだぞ」
「...相変わらずだな、卿は...亡き子房殿がかつて教えてくださったのだが、卿はまだ布衣(庶民)だった頃から、「天下の宰相になる」とかほざいていたそうだな ? 呆れた奴だ...が、まあ、野心もそこまで行けば大物の証とも言えるがな」
「で、卿は実際にその大言通り天下の丞相になったんだからな...何となく腹立たしい気もするが、大した奴だよ。しかし、その歳になってまだ丞相の座にいたいのか ?」
...かつて高皇帝(劉邦)の下で共に戦っていた頃から、腹が立つ位に頭が切れる奴だ...とは思っていたが、朴訥な武人肌の周勃としては何となく肌が合わぬ気がしていたし、有体に言って嫌な奴だとも思っていたのだが、共に戦っていく中でいつしか、彼の劉邦と漢王朝に対する忠誠心も献身も本物だと認めるようにはなっていたのだった。
しかし、まさかこの男と生死を共にして呂氏討滅の計画を練り、その大事を決行し、漢帝国と劉氏の天下を守ることになろうとは...若き日の周勃としては想像もできぬ未来になった訳だが。
気が合う仲とはお世辞にも言えぬが、腐れ縁もここまで続けば一応この男も「友」と言っていいのかもしれぬ...と、周勃は考えていた。
「灌嬰も、そろそろ丞相になりたいだろう...いい加減譲ってやったらどうだ」
周勃の言葉に、陳平は皮肉な感慨に襲われた。周勃に灌嬰...最後に俺と生き残った「戦友」がよりにもよってこいつら二人とは、何という皮肉であることか。
「灌嬰...ねえ。卿は忘れているかもしれんが、俺が高皇帝に仕え始めたばかりの頃に卿ら二人は俺にどんな仕打ちをした ? あの戦乱の時代を経て、最後に俺と共に生き残ったのがよりによって卿ら二人とは、ますます譲る気になんぞなるか。灌嬰が丞相になれるとしたら俺が死んだ時だ。絶対に譲ってなどやるもんか」
「それ」を持ち出されると、周勃は弱い。
「...卿もいい加減あれは忘れろ。悪かったよ、あの時は。普通に考えて怪しいと思うだろうが、卿みたいな男は...顔は良いわ、弁は立つわ、態度はデカいわ、1つ何か言えば10倍言い返してくるしな...まさか本当に金に困っていたなんて、想像しないだろう」
「大体だな、卿は頭が切れすぎる上に、それがあからさまに外に向かって出すぎるからいかんのだ。高皇帝でさえ、御遺言で卿が「切れすぎる」事を警戒なさっておられたらしいじゃないか」
陳平は、失笑した。....こいつは、まあ悪い奴ではないが、やはり見るべきところを見ておらぬ。
「卿は、俺が呂后時代に仕事もせずに酒ばかり飲んでいたのは何故だと思う。粛清されることを避け自らの身を守るためだ。一方、高皇帝に対しては言うべきことは全て言ってきた。俺の頭の中にある策も全て進言し、高皇帝は俺の策を悉く用いてくださったのだ」
「...確かに俺は切れすぎたかもしれぬが、それは高皇帝のご器量を信じていたから俺は俺の能力を存分に発揮することが出来たのだ。そして高皇帝は俺の欠点は知りつつも、俺の長所はきちんと見てくださり、俺の長所を活かしてくださったのだ。だから、卿と灌嬰が高皇帝に対して俺を讒言した時も、俺の欠点ではなく、俺の長所を信じてくださっていたのだ」
周勃は苦い顔で、だからもうそれは忘れろ....という顔をした。
「卿は、少なくとも「切れすぎる」時と相手は弁えていたというのか?」
「当たり前ではないか。呂后の時代に、高皇帝にお仕えしていた時と同じ「俺」でいたら、命がいくつあっても足りぬわ。その位は卿にもわかるだろう。だから、呂后が高皇帝の御遺訓に背いて一族を王に立てようとした時、俺と一緒に保身を図ったではないか」
...硬骨漢の王陵にはそれが出来なかったのだ。
陳平は王陵の為人は尊敬している。しかし、その正しさが人も国も救うとは限らぬ。それが人の世の現実である。
あの時王陵は、呂后に媚び諂い劉邦の遺訓に背いた...ように見えた陳平と周勃をなじった。卿らはそれでも高皇帝の子飼いか、あの世で高皇帝に合わせる顔があるのか...と。
しかし、陳平にしても周勃にしても、あの時ただ単に命を惜しんだのではない。命を惜しみ、地位を保ってこそ後日を期することが出来る事を確信していたのだ。
史記呂后本紀曰
「太后稱制,議欲立諸呂為王,問右丞相王陵。王陵曰:「高帝刑白馬盟曰『非劉氏而王,天下共擊之』。今王呂氏,非約也。」太后不說。問左丞相陳平、絳侯周勃。勃等對曰:「高帝定天下,王子弟,今太后稱制,王昆弟諸呂,無所不可。」太后喜,罷朝。王陵讓陳平、絳侯曰:「始與高帝啑血盟,諸君不在邪?今高帝崩,太后女主,欲王呂氏,諸君從欲阿意背約,何面目見高帝地下?」陳平、絳侯曰:「於今面折廷爭,臣不如君;夫全社稷,定劉氏之後,君亦不如臣。」王陵無以應之」
王陵の名前が出ると、周勃はまた往時を思い出して感慨深いようであった。
「...あの時、王陵殿には申し訳ないことをした...だが、確かにああするしかなかった...とは今でも思う。卿と俺は確かに高皇帝の御遺訓に一時的にでも背いて、身の安全を図った。だが、そうしたからこそ今こうして、漢の宗廟を守ることが出来たことも事実なのだ」
「卿には実感ではわかるまいが、王陵殿と高皇帝...だけでなく俺たち沛の出身者は長い付き合いなんだ。王陵殿は、高皇帝に後事を託されてそれはもう感激しておられた。男子の本懐だと仰られてな...何としても高皇帝の御遺志を守り、その信頼に応えなくてはならぬと信じておられた。その王陵殿を裏切る形になったことは、今でも俺は辛いのだ」
(※中国において遺孤を託す...という概念があるが、託された者には男として最大級の感動を伴う。劉邦は元侠客である王陵は「そういう男」と見込んで後事を託したのだろう)
...こいつも王陵も「良いやつ」ではあるが、「善良な」人間には、国家を造ることも、守ることも、ひいては民を安んじることも出来ぬ。陳平はそう思った。
そして、高皇帝(劉邦)も決して俺と周勃をお叱りにはならぬ、お分かりくださる筈だ...と、陳平は確信している。
劉邦も項羽を倒し天下を取る為に、項羽との盟約に背くようなことはやっている。本心を偽り、項羽に這いつくばって見せたこともある。そして、劉邦はそれらを恥じる必要などないと陳平は思う。
(尤も、それは張子房と陳平が盟約に背いて項羽を追撃するよう進言したからだが)
権力とはそれを如何に手に入れたかではなく、如何に行使したかによって正当化されるものだ。
劉邦が恥じなくてはならぬ事態があるとすれば、劉邦が悪政を布き、天下の民を苦しめ、国家を滅ぼした時であり、劉邦は天下を平定し、戦乱の世を終わらせ、かつ概ね善政を布いていたのだから、天下を取る過程において如何なる手段を取ろうとも恥じるべき何物もないと陳平は確信している。
その劉邦が、結果として漢の宗廟を守り抜いた陳平と周勃に対し、その方法論の是非など咎める筈がない。
...
改めて顧みると、呂氏討滅のクーデターは呂后と陳平や周勃、灌嬰らとの寿命の競争であった。先に死んだ方の負けである。
その点に関して、陳平や周勃、灌嬰は呂后よりも若いという利点があった...が、人の天寿など誰にもわからぬ。
陳平、周勃、灌嬰....三人の一人でもかけていたら、あのクーデターは成功しなかったであろう。
陳平には計画を立案する智謀はあるが、軍の指揮権がないし、経験もない。周勃と灌嬰には、そもそも「陰謀の立案能力」自体が欠けている。
大軍を指揮しうる格と実績を持つ者も、あの場合は二人必要だった。周勃と灌嬰、大将軍格の二人がいたからこそ、内と外で連携することも出来たのだ。
そして、本来親密でもなかった陳平と周勃を結び付けた陸買...彼の功績も大きい...と、陳平は思った。
「...周勃よ、その事はもう気にするな。王陵殿はあの時の俺たちの真意をわかってくださった筈だ。だから何も言い返さなかっただろう。俺たちもあの時はあれ以上のことは言えなかったが、王陵殿には伝わっていたさ...俺たちは只呂后に追従した訳ではない。後事を図る意図があってのことだと」
「それにな、こうして大事を成し遂げた俺たちの事は王陵殿は九泉の下で見てくださっているに違いない。まあ...あっちで再会した時には色々文句も言われるかもしれんが....今の俺たちは胸を張って王陵殿にま見えることが出来るではないか」
周勃は、思わずこの腐れ縁の「友」をまじまじと凝視した。
「...何だ、その目つきは」
「...いや、珍しい事もあるものだと思ってな。「あの」卿からそんな感傷的な言葉を聞こうとは。俺の人生において最大の驚きかもしれぬ」
「卿は、俺を何だと思ってるんだ」