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借箸籌策其二

使用したAI Dalle
陳平は、驚愕を禁じえぬ思いであった。張子房という冷徹無比の策士が、ここまで激するのを陳平は初めて見る。

常に冷静なように見えて、この男の本質の一面に実は狂気とも言うべき異様なまでの感情量が秘められていることを、陳平は知っている。ただしその狂気は常に、圧倒的な情報収集とそれを完璧に、かつ正確に分析する天才的な頭脳と何の矛盾もなく併存しているのだ。

張子房という男の異常さは、その点にある。

その異常さ故にこそ、かつてこの男は僅かな人数を以て始皇帝の暗殺を謀り、そして今はその偏執的なまでの情熱と天才的な頭脳を「項羽を殺し、項羽に殺された韓王成の仇をうつ」という一点に凝集させているのだ。

陳平は悟った。

この冷徹な男がここまで激した理由は、「項羽を殺す」という目的只一点に凝集して練り上げた己の大戦略を、酈食其が妨げようとしたからだと。

張子房という男は、例え味方であろうとも「項羽を殺す」という己の復讐を妨げる人間に対しては、完全に敵とみなして一切の容赦をしない。例え今は同志として信頼している陳平と言えども、更に言えば主君である筈の漢王劉邦ですら、己の復讐の妨げになると思えば容赦はしないだろう。

(酈食其は、決して怒らせてはならぬ男を怒らせ、敵に回したのだ...俺もせいぜい気を付けるとしよう...こんな化け物を敵に回しては、命がいくつあっても足らぬわ)
陳平は、自分の事は完全に棚に上げて、そう思ったのだった。周勃などに言わせれば、陳平もその化け物と同類ではないか...と言うに違いない。

「張子房...やはり貴様は狂っている」
子房の気迫に完全に圧倒された...ように見えた酈食其は、やっとの思いでそう言葉を絞り出した。

その一点に関しては、陳平も同意見ではある。

「今の言葉に、貴様の本心を見たわ...貴様は「万民の安寧」等と言いながら、その本質的な部分ではそれに何の関心もないのだ、貴様にとって重要な事は、「項羽を殺す」ただそれだけなのだろう」

酈食其も、弁士としては天下の鬼才である。張子房と言う男の本質の少なくとも一面だけは正確に見抜いた。しかし、それがどうした、子房が戦う動機が何だろうと知った事か、復讐で何が悪いと陳平などは思っている。

「...酈生、例えそうだとしても、その結果として天下は平定され、万民に平和と安寧がもたらされるではありませんか。子房殿の本質的な動機が復讐であろうと何だろうと、この際重要な事は結果です。唯それだけの事ではありませんか。それに何の問題がありますか」

陳平は初めてここで言葉を挟んで、二人の会話に介入した。

「そして客観的に見て、この状況で正しいのは子房殿の戦略と、郡県制を目指す我が漢の国策であり、卿の策は誤っていると私も思いますぞ。今、天下を平定する為に必要な政略と戦略は、我が漢が圧倒的な力を持ち、楚を圧倒することです。その為の郡県制であり、中央集権です。それを六国に分断して何が出来ますか」

「...卿は六国も項羽も大王の徳に服する..等と仰るが、失礼だが非現実的な妄想という以外にない...子房殿が仰せの如く、人は利によって動くのです。折角まとまろうとしている天下を分断した「徳」などという代物に、どんな値段が付くというのですか、それで飯が食えますか ?...かつての戦国七雄の時代に戻るだけですぞ」

「卿の策は万民に平和をもたらす処か、天下の民を更に数百年の乱世に叩き込む暴挙と言うしかありません。私も子房殿の御意見に完全に同意いたしますぞ。卿こそ民を思う気持ちがおありなら、少しは目の前の現実を見ていただきたい」

傍らから陳平にも非難され、酈食其もさすがに鼻白んだようであった。
「...ふん、そう言えば貴様も卑怯外道非道上等という輩だったな...今も何やら、後ろ暗い工作をしておるそうではないか」

無論陳平という男も、その程度の言葉で怯むようなひ弱な神経は持ち合わせていない。更には、売られた喧嘩は百倍の値段をつけてでも買う男でもある。「売り言葉に買い言葉」には、それこそ待ってましたとばかり飛びつくような「悪癖」の持ち主だ。

「繰り返し申し上げますが、私は正々堂々戦って美しく負けて、その結果として戦乱を長引かせ、我が漢と天下の民を塗炭の苦しみに晒し続けるよりも、如何に卑怯な策であろうと、如何に非道外道な手段であろうと確実に勝つ為の策を考え、一日も早くこの戦乱の世を終わらせることによって少しでも敵味方の犠牲を減らし、万民に平和をもたらす方を選びますな」

「勝利も、その結果として得た権力も、それを如何に手にしたかなど問題ではないのですよ。重要な事は、その勝利を如何に後の治世に生かし、その権力を如何に行使して善政を布くか、ただそれだけです。勝利も権力も、それを如何に行使したかによって正当化されるのです。卿の妄想などよりも、子房殿と私が用いる「非道外道」な策の方が、結果として余程天下万民の為になりますよ」

「...酈生、そうして天下が平定された後でなら、卿ら儒者の出番もありましょう。それまで柄でもない天下平定の策など考えず、我々軍部にお任せいただきたい。実際、叔孫生(叔孫通)、陸生(陸賈)、随生(随何)などは己の分を弁えて戦の事などに一切口を挟まず、内政や外交の役割に専念しておられるではありませんか」

「我が漢には、ここにおわす張子房殿の千里を見通す戦略と(そして私と)、大将軍韓信殿の天才的用兵、そして曹敬伯(曹参)将軍以下百戦錬磨の諸将がおります。必ずや六国を平らげて我が漢の支配下を置き、万民に平和と安寧をもたらして御覧に入れましょうぞ」

口数だけなら、陳平は張子房の数倍喋る...酈食其は、さすがに辟易したような顔つきになった。
「...陳平、貴様こそ、そのよく回る舌と減らず口と毒舌は外交に向いておるぞ。貴様は策士というより縦横家のようによく喋りおるな...何なら儂の下で修業せんか ? まあ、見どころがなくもないから、儂が鍛えてやればそれなりの縦横家にはなれるかもしれんぞ ?」

この爺こそ、大した減らず口だ...と陳平はまたしても完璧に己自身を棚に上げて思ったが、勿論口には出さぬ。
「謹んで、ご辞退申し上げます...私は今、ここにおわす子房殿と卿の言う卑怯外道非道な策の数々を考えるのが楽しくて仕方ありませんのでね。それに縦横家など、それこそ春秋戦国の遺物ですよ。縦横家が活躍する時代など終わったのです。というか、縦横家が活躍するような乱世は此処で絶対に終わらせねばならないのです、我々の手で」

「大体、私の様な極悪人を弟子にしては卿の儒者としての名声に傷がつきましょうて...「清く正しく美しい」筈の儒者殿が我らのような老荘の徒に関わっても、ろくな事になりませんぞ ?」

...

散々二人の策士に毒づいた酈食其が立ち去った後、張子房は苦笑しつつ陳平に言った。
「...何も陳平殿が共に酈生に憎まれる必要もなかったでしょうに、私と一緒に酈生を敵に回すとは...失礼ながら、陳平殿らしくありませんな」

陳平自身もそう思わぬでもなかったが、別に後悔はしていない。
「別に子房殿に義理立てした訳でも何でもありませんよ。それこそ私らしくない。純粋に私自身の利益の為です」

「先ほども申し上げましたが、私は今、子房殿と共に我が漢と我が大王の勝利の為に策を立てる事が楽しくて仕方ないのですよ。この充実感を求めて、私は楚を逃げ出したのだと言ってもいい。この快感を余人に邪魔されるなど、私にとっても耐え難い不快と言うしかない。私や子房殿と同等以上の見識を持つ者ならば、対等の同志として迎え入れることもやぶさかではありませんが、ろくに人の世の現実も見えておらぬ腐れ儒者風情に我らの大戦略を邪魔されるなど、到底耐えられませんのでね」

...

とはいえ、現在の漢軍の状況は「楽しい」などという状態から程遠いのも事実である。陳平が進めている離間の策も、今時点では決定的な効果を得られている訳ではない。

元々この手の工作は時間がかかるのが欠点であり、その前に滎陽が落ちてしまっては何もかもが終わりなのだ。

「...陳平殿は、この後の手立ては何か考えておられますかな ?」

「はい。この度の項伯殿と項荘の接待により、更に項羽の疑心暗鬼を誘えたことは間違いない...と思いますが、それだけではこの度の策が成功したとはとても言えません。実際、現時点で范増以下楚の有力な諸将は誰一人粛清された訳でも失脚した訳でもありません」

「もしこの度の使者が項羽に復命した後にしばらくしても何の変化もなければ、まだ打つ手が足りていないという事なのでしょう。その事態も想定して、次の策も考えてはあります」

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