「周勃の次男...確か周亜夫だったか」
そもそも楚漢戦争の前半においては周勃と不和であり、その後も決して親密であった訳ではない陳平だが、呂氏討滅クーデターの際、儒者の陸賈の進言を容れて以来、周勃との私的な親睦を深めた経緯があり、勿論周家の息子たちはそれなりに知っている。
史記陸賈伝曰
「呂太后時,王諸呂,諸呂擅權,欲劫少主,危劉氏。右丞相陳平患之,力不能爭,恐禍及己,常燕居深念。陸生往請,直入坐,而陳丞相方深念,不時見陸生。陸生曰:「何念之深也?」陳平曰:「生揣我何念?」陸生曰:「足下位為上相,食三萬戶侯,可謂極富貴無欲矣。然有憂念,不過患諸呂、少主耳。」陳平曰:「然。為之柰何?」陸生曰:「天下安,注意相;天下危,注意將。將相和調,則士務附;士務附,天下雖有變,即權不分。為社稷計,在兩君掌握耳。臣常欲謂太尉絳侯,絳侯與我戲,易吾言。君何不交驩太尉,深相結?」為陳平畫呂氏數事。陳平用其計,乃以五百金為絳侯壽,厚具樂飲;太尉亦報如之。此兩人深相結,則呂氏謀益衰。」
あのクーデターの際に、表の立役者となったのは勿論、陳平、周勃、灌嬰の三人であるが、裏で彼ら重臣達の結束を図った陰の立役者が、実は陸賈であった。
楚漢戦争当時、項羽への和睦の為の使者として失敗した事ばかりが後世、印象に残りがちな陸賈であるが、この男は決してそれだけの男ではない。
元々儒教嫌いな劉邦に自ら進んで仕えていた位であるから、決して「ただの儒者」ではない。儒者にありがちな教条主義も空論好きもなく、政治において裏面工作も寝技も出来る男で、更に歴史家としても優れた業績を残している。
(司馬遷の史記も、この時代の記述においては陸賈の著作に拠るところが大きい)
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更に、この記述においてもう一つ注目すべきは、陳平の食封を「三万戸」と言っている処である。
天下平定直後の陳平の論功は五千戸であり、ほぼ同時期に漢軍の総参謀長だった張子房が王を除く臣下中最大の三万戸という評価を受けて辞退し、結局留侯一万戸にとどまった事はよく知られている。
その張子房が当初提示された三万戸の食封を、この当時の陳平は受けていたことになる。
史記陳丞相世家にも、陳平が曲逆侯五千戸に封じられた後に、
「其後常以護軍中尉從攻陳豨及黥布。凡六出奇計,輒益邑,凡六益封。」との記述があり、この記述から推測するに、陳平は劉邦在世当時既に、臣下中最大の諸侯になっていた可能性がある。
(漢帝国の相国を務めた蕭何、曹参も三万戸は受けていない)
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「...確かに、周勃の息子であれば何もせずとも諸侯として一生を安楽に送れる処を、わざわざ軍に入ってくる位だから、気概はあるのだろう...その上に能力もあるか ?」
「用兵の知識はいくらでも教育で叩き込めるが...結局その知識を生かすも殺すも本人の素質がものを言うのだ。こればかりは知識だけでどうなるものでもない。だからこそ知識を生かす術を身に付ける上で実戦経験が重要なのだがな...だが、稀にそれを天賦の資質だけでやってのける人間というものはいる。かつての淮陰侯(韓信)もそうだったろう」
灌嬰は言った。要するに「周亜夫という男は天才だ」ということである。
この時代、元は一介の庶民であった漢帝国建国の功臣達はそれぞれに諸侯となり、所謂貴族階級になっているのだが、漢帝国そのものは決して貴族社会ではなく、大前提として劉邦以来の実力主義がまだ生きている時代であった。
蕭何、曹参を筆頭に彼ら建国功臣達の子弟たちは、この文帝時代初期にも当然諸侯として存在しているが、彼らは全くと言っていいほど漢帝国の政治軍事の場において重要な地位に就くことはなく、影響力を持っていない。
わずかに曹参の嫡子である曹窋が呂后の太后時代に三公である御史太夫(副首相)になった位であった。
漢帝国はこの当時はまだ、功臣達の子弟を諸侯として優遇はしても、決して血筋だけで要職を与えることはしなかったのである。
「...しかし、その周亜夫が大将軍になる頃には、もうじき死ぬ俺は勿論、卿とてこの世にはおるまいよ」
陳平がからかうように言うと、灌嬰は憮然とした顔つきになった。
「...相変わらず、嫌な事を言う男だな卿は。卿は長生きしてそれを見届けろ...位の事は言え」
「俺は、死ぬまで俺だ...まあ、後はその周亜夫が趙括ではないことを天に祈るだけだな」
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この時代の中国人であれば、「趙括」という名前だけでその意味を察することが出来る。
趙括とは戦国末期の趙の将軍であり、戦国史上最大の惨劇となった長平の戦いにおいて趙軍の大将軍であり、秦の名将白起の前に惨敗した男である。
この時、白起は捕虜となった趙軍四十万将兵を悉く伉(生き埋め)にして虐殺した事はよく知られているが、その惨劇を引き起こす原因を作ったのが、趙の大将軍であった趙括の無能無策であった。
しかし、趙括は兵法の理論家としては優れており、時の趙王はその理論的華麗さの裏にある趙括の現実的な能力の空虚さに気付かず、名臣藺相如らの反対を聞かずに歴戦の名将廉頗を更迭してまで趙括を起用し、遂にその惨劇を招いたのだった。
史記藺相如伝曰
「後四年,趙惠文王卒,子孝成王立。七年,秦與趙兵相距長平,時趙奢已死,而藺相如病篤,趙使廉頗將攻秦,秦數敗趙軍,趙軍固壁不戰。秦數挑戰,廉頗不肯。趙王信秦之間。秦之間言曰:「秦之所惡,獨畏馬服君趙奢之子趙括爲將耳。」趙王因以括爲將,代廉頗。藺相如曰:「王以名使括,若膠柱而鼓瑟耳。括徒能讀其父書傳,不知合變也。」趙王不聽,遂將之。」
以来、中国において「趙括」とは理論や弁舌には優れていても、現実に対する無能者を指す人間の代名詞となった。
つまり、陳平は周亜夫が理屈倒れの空論家でなければよい(大将軍が趙括の類では、今度は漢という国が滅びかねない)...と言ったのである。
「俺は趙王とは違う、高皇帝(劉邦)と淮陰侯(韓信)の下で百戦の経験を経てきた男だぞ。本物と偽物の区別もつかぬようでは、そもそも今日まで生き残っておらんぞ」
灌嬰は断言した。
「...そうか、ならば俺も卿の眼を信頼しよう...そして、なればこそ俺もいくらかは安心して死ねる...」
陳平の相貌から、急に力が失われていくように灌嬰には見えた、
「...疲れただろう。少し休め」
「...いや、いい。最後に卿と話が出来て良かった。言うべきことも言った...周勃とはもう会う事はないだろうが...もし会うことがあったら、宜しく伝えてくれ」
「...だが、先刻申したように、あいつはこのまま引退していた方が良いのだ...そして、そう遠くない内に、周勃とも卿とも泉下で再会しよう...先に行って、皆と共に待っているからな...」
「...おれはまだ死なんぞ...それにあの世に行ってまで卿と付き合ったりするものか」
灌嬰としては、別に憎まれ口ではなく本心から言った。
確かに、このとてつもない頭脳を持った男とは「戦友」であったかもしれないが、決して気の合う仲ではなかった。あの世に行ってまでこの男と付き合おうとは思っていない。
「...予言してやるが、必ずそうなるぞ。俺は泉下でも高皇帝にお仕えするのだ...先に行った皆もきっとそうだ...だから、俺たちはあの世に行ってもきっと一緒にいる羽目になろうよ...卿はそうではないのか ?」
灌嬰は、言葉に詰まった。言われてみれば道理ではある。
だが、口にしたことは別の事であった。
「...卿はそこ迄、高皇帝に惚れていたのか」
陳平の血の気が失せた顔に会心の笑みのようなものが浮かんだ。
「愚問だ...あれほど仕え甲斐のある主君が他にいるか。いや、千年の歴史を見渡してもいるものか。卿も知っての通り、俺は魏を見限り、楚を捨てて漢に仕えた男だ...理由は何度も言っただろう...俺は魏でも楚でも懸命に天下の為の策を説いた...だが、全く相手にされなかった...魏では魏無知殿だけが俺を認めてくれたが...国を動かす力にはなりえなかった」
「だがな、高皇帝は楚から身一つで逃げてきただけの俺の言葉に虚心に耳を傾けて下さり、卿や周勃が俺を排斥しようとした時でさえも俺の言葉をお信じ下さり、まだ何の功績も挙げていない俺を護軍中尉などという重職に抜擢された。その後も俺が献じた策を悉く用いて下さり、更に御遺言では俺を曹相国(曹参)と王丞相(王陵)に次ぐ丞相の候補として、漢という国の後事を託してくださったのだ...千年の歴史を見渡しても、俺という人間をこれほど理解して下さり、俺の能力を極限まで使ってくださる主君など、いよう筈がないではないか」
「...あの時の事は、俺の誤りだった。その点は率直に詫びる...卿には済まぬことをしたと今では思っている」
灌嬰としては、「あの時」の件に関してはそう言うしかない。
「周勃にも同じことを言われたが...それはもう良い...過ぎたことだ...もう三十年近い昔の話だ...」
「俺が言いたいのはそんな昔の恨み言ではない...卿も言う通り、俺は卿とも、そして周勃もそうだが...決して意気投合した友...という訳ではなかった...諍いもした....だが、そんな俺たちでも、あの高皇帝の下では必ず結束した...共通の目的の為に結束できたのだ...高皇帝が大業を成される為とあらば、俺たちは決して身内で争うようなことはしなかった...だからこそ我が漢は天下を平定したのだ。卿はそう思わぬか」
「...それは、俺もそう思う」
灌嬰は、陳平の言の正しさを率直に認めた。
そして、劉邦に心底惚れている...という陳平の心情も完全に理解することが出来た。灌嬰自身も同じだったからだ。
灌嬰とて、別に権門貴族の家に等生まれていない。一介の商人に過ぎなかった。それも大商人などではなく零細の行商人だ。
ただ、野心はあった。
歴史に不朽の名言として残るであろう陳勝の「王侯将相焉んぞ種あらんや(王侯將相寧有種乎)」という言葉を伝え聞いた時、その言葉は若き灌嬰の心をどれだけ勇気づけたことだろう。
しかし、いくら「王侯將相寧有種乎」と言っても、現実に事を為すには門地も金も必要であるのが現実だった。
そんな灌嬰が、当時沛公でしかなかった劉邦に随身したのは只の偶然ではあるが、とにかく居心地がよかった。何よりもありがたかったのは、劉邦軍の幹部の大半が庶民の出であり、出自が問われることはほとんどなかったことだった。
劉邦軍の幹部の多くは、劉邦と同郷の豊県や沛県出身者だったが、他郷の人間である灌嬰を排斥する空気など全くなかった。それどころか、灌嬰はいきなり劉邦によって中涓(親衛隊幹部)に引き立てられたのである。
中涓とは、当時既に最高幹部だった曹参などと同等の待遇である。若き灌嬰は感激した。
中国人は、基本的に郷党性や血族意識が強い。そんな中にあって、劉邦という男の人材登用における風通しのよさと開明性は、確かに尋常ではない。
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「成程、卿の言は道理ではあるな...やれやれ...九泉の下でも俺たちは仲間という訳か」
灌嬰としては、陳平の「予言」の正しさを認めるしかないようであった。
いつもそうだ。
頭の回転と、読みの深さでは決してこの男には敵わない。どうにも気の合わぬ男ではあったが、味方としてこれほど頼もしい参謀は今は亡きあの天才、張子房以外にはいなかったのも事実である。
まあ、それも悪くない。灌嬰は思った。
高皇帝...あの劉邦という、時に理解を絶する訳の分からぬ男に巡り合ったお陰で、この上なく面白い人生を送ることが出来た。
「仲間」内には、この陳平のように気の合わぬ男もいたが...総じてあの「仲間」たちの空気は気に入っているし、その「仲間」達と力を尽くして乱世を鎮め、天下を取った事は、灌嬰にとって至上の誇りとする処だ。
死して後も、「彼ら」と共にいれば退屈せずに済みそうであった。