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封禅

使用したAI Dalle
貞観年間のとある日の事である

大唐帝国皇帝、李世民が後宮内の皇后居室に入っていった時、皇后長孫氏は、大きな白紙に何やら熱心に書きつけていた。世民が入室してきたことも気づかぬほどの熱中ぶりである。
「....何を書いているのかね、観音婢」

「皇上....これは気づきませず、申し訳ございませぬ」
「良いのだ良いのだ。朕に構わず続けなさい...何を書いているのかな」

....我が妻ながら、世民は我が皇后を歴史上不世出の皇后だと思っている。

幼少より深く学問を修め、古今の歴史に通じ、大義を弁え、無類の聡明さを持ち、後宮の全てを任せて憂いなきばかりか、世民が何か政治上の助言を求めた時も、決して本筋を外さない。

尤も、皇后が政治向きに関わることを厳に自戒しているのでなかなか答えてくれぬが。

...世民は、妻が衣装だの器物宝物だのの類に関心を持っているところを見たことがない。

この妻の最大の関心事は、古今の歴史を学び、己を律し、後宮を完璧に運営し、皇帝たる世民を支えること、ただそれのみなのである。

派手好きな女が皇后や寵姫になったりすると、たちまち後宮の運営費が国庫を圧迫するのは歴史上いくらでもあった例だが、大貴族の生まれというのに13歳で世民と結婚して以来、長孫氏の質素倹約徹底と他の妃たちへの指導薫陶の結果、秦王時代から世民の....そして大唐帝国の後宮運営は誠に健全経営の模範であった。

史上賢后として名高い、東漢の世祖光武帝の陰皇后、その子である顕宗明帝の馬皇后ですら此処まで徹底してはいなかっただろう。

ちなみに長孫皇后は、馬皇后に対しては外戚に甘かったという点において批判的な意見すら持っている。

「...季漢の昭烈帝(蜀漢の劉備の事)が後嗣に与えた遺言の一説ですわ。子供たちに読ませようと思いまして」
「有名な一節だな....さすがは観音婢だ」

この時代、まだ講談本としての三国志演義は成立していない。

しかし、劉備が臨終において丞相諸葛武侯(諸葛孔明)に大業を託し、後嗣劉禅に与えた遺訓は、千古の美談としてこの時代既に歴史的教養としては広く普及していた。

「...朕の座右の銘でもある。ところで観音婢、一つ相談がある。封禅の儀式を執り行うことの是非についてなのだが...」
世民は単刀直入に切り出した。

恐らく、この妻はいつものごとくなかなか相談には乗ってくれまい...何しろ「皇后が政治に立ち入るなど言語道断」が座右の銘という女である。

しかし世民としては、これほど優れた識見を持つ皇后に意見を正さぬという訳にはいかないのである。

正直言って、廟堂で魏玄成(魏徴)や房玄齢、杜如海に意見を聞くよりも、この妻の意見を重んじることすらある。

案の定、長孫皇后の口から出たのはいつもの...
「...臣妾は一介の女に過ぎませぬ。封禅の事は国家の大事でごさいます。廟議で君臣共に十分に議論を尽くされませ」

世民としては、妻がこう言ってくるのはもう毎度のことでわかりきっているので、ここで引き下がる訳には行かぬ。

しっかと皇后の両手を握りしめ、
「いやいや、観音婢。朕はそなたの考えこそ聞きたいのだ。廟議でも議論が百出してまとまらぬ。断然行うべきという意見と、...いつものことだが玄成は断固反対だ。朕も困っておるのだ。どうか朕を助けると思って、観音婢の考えを聞かせてくれ」

長孫皇后はやや困ったような表情を見せたが、世民が意を尽くして懇願する時、かつ国家万民の為と皇后自身が深く意を決している時は否とは言わぬ。
「...そこまで皇上が仰いますなら....臣妾の愚見を申し上げますが」

「封禅の儀式は千古の盛事ではございますが、千騎万乗、賀車東巡....国庫の費えは莫大なものとなりましょう。国において何の益がございましょうや」

「...皇上が善政を布かれておりますこと、天下の万民が知っております。後世の史書も必ずや貞観の盛時を称賛することでしょう...封禅の儀式を行わぬとて、皇上の大業は萬世に残ります」

「臣妾は、隋朝の煬帝の過ちを貞観の世において再現されることを望みませぬ」

...巧みに世民を称賛しつつの諫言ではあるが、長孫皇后はなかなか思い切ったことを言っている。

決して夫には言わぬことであるが、皇后はその才幹の豊かさ、覇気、性格的な事を含めて、世民と煬帝は似ていると思っている。

一方は萬世に悪名を残す暴君であり、一方は同じく萬世に名君として名を残しそうではあるが、二人の皇帝は本質的な部分では似ているのだ。

煬帝は決して暗愚な皇帝ではなかった。

才能もあった。

覇気もあった。

しかし、ただ一点、致命的に自制心が欠落していた。

世民が煬帝と異なるのはその一点である。

魏玄成(魏徴)のような、口やかましい男をわざわざ廟堂で用いているのも其の為だ。

常に己が道を誤らぬよう、他人の意見を広く聞こうとする一点において、世民は煬帝と異なる。

...しかし妻の目から率直に見て、世民は覇気に溢れた性質であり、であるが故に名君になったとは言えるのだが、それは時に危うさを秘めているように思われるのだ。

常に反対意見ばかりまくしたてる玄成ともよく衝突している。
(怒りに任せて玄成を殺したりしないところはさすがだが)

その危うさと表裏一体の覇気があればこそ、世民は大業を成したともいえるが、長孫氏は密かに夫に一抹の危うさを感じてもいる。

...それを鞘走らせぬことこそ、妻である臣妾にしかできぬ役目なのだ

長孫皇后はそんなことを思っていた。

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