「...そうか」
若きカエサルが発した言葉はそれだけだったが、ガイウス・キルニウス・マエケナスは、若き主君の凍てつくような瞳に一瞬走った、凄惨、かつ陰惨な閃光を見逃さなかった。
クレオパトラという女は将来において、恐らく確実に軽挙の報いを受ける時が来る、マエケナスにそう確信させる光だった。
プトレマイオス朝エジプトに不穏の気配有。
曰く
クレオパトラ七世は、あろうことか神君カエサルと正式な結婚をしていたと主張しているばかりか、己が産んだカエサリオンこそ神君カエサルの正当な嫡子だと主張している。
...
マエケナスの諜報網が掴んだ情報は、マエケナス自身が当初信じられない位常軌を逸したものだったが、その報告を受けた二十一歳のカエサルは顔色一つ変えなかった。
少なくとも表面的には。
だが、その内心に渦巻くクレオパトラへの憎悪と殺意が並々ならぬ事を、マエケナスは全身の神経で感じ取っていた。
「....この状況をどう思う、マエケナス」
マエケナスとて己の冷徹さには聊かの自負を持っていたが、今、若き主君の瞳の奥に燃え盛る暗い炎を直視することは、マエケナスほど太々しい男をもってしても、神経に多大な圧迫がかかることを自覚せざるを得ない。
「い、遺憾ながら、当初敵対勢力として計算していなかったエジプトを完全な敵として、全ての戦略構想を練り直す必要があります」
「最も懸念すべきことは、今後のアントニウスとレピドゥスとの分割統治案に影響が大きいことです。現在、我々が構想している大戦略として、パルティア遠征を餌にしてアントニウスを東方に追いやり、カエサルは本国ローマの統治権を維持する方針でした。しかしエジプトが完全に敵と判明した今、クレオパトラはアントニウスと手を結ぶ公算が極めて大です。恐らくあの女の性格からして、アントニウスを色仕掛けで誑し込むことは確実です。クレオパトラとアントニウスが手を結ぶ時、それはカエサルにとっても脅威と言わざるを得ません」
「...そして、アントニウスという男はその見え透いた色仕掛けにすら易々と乗ってしまう程度の男、ということだな」
「御意...」
アントニウスという男は軍事的な能力はともかく、政治的な冷徹さも、女に対する自制心も、およそ皆無という男だ。
クレオパトラのような女にかかってはひとたまりもあるまい。
こういう時は却って始末が悪い。
「しかし、アントニウスを東方に追いやるという大前提は変えられまい。今の私にはそれしか選択肢がない。本国ローマを手放すことは絶対に不可だ。であればアントニウスにはとりあえず、エジプトとあの女を含めて東方をくれてやるしかあるまい。その前提で策を練り直すのだ」
「...仰る通りです。忌々しい話ですが、その大前提は変えられませぬ」
マエケナスとしては、完全に想定外の状況で幾重にも腹立たしい。カエサルとは違う意味で、クレオパトラという女に対する憎悪を抑えかねる思いだった。
「...それよりも問題は」
カエサルは言葉を続けた。
「アントニウスはパルティア遠征に成功するかどうかだ。より正確には、我々に与えられた時間だ」
マエケナスにも主君の懸念は理解できる。
カエサル陣営の視点としては、分割統治案の本心は「アントニウスを東方に追いやる」ことにあるが、アントニウスはこれを断るまいとも読んでいる。
アントニウスの政治的能力の欠如もさることながら、武将としては有能なアントニウスはパルティア遠征を任されることの誘惑に抵抗できまいとも読んでいるからだ。
既に神君カエサルの「息子」、「神の子」という立場を公的に手中にしたカエサルに対し、競争者として立つ為に「大カエサルがなしえなかったパルティア遠征成功」という果実を欲しがるだろうと、カエサルとマエケナスは洞察していた。
しかし、同時にカエサルとしては、アントニウスにパルティア遠征に成功されても困るのである。
この辺は一種のアンビバレンツで、カエサルとマエケナスはそのリスクを承知の上で、第二次三頭政治における分割統治案を進めようとしている。
カエサルはさらにレピドゥスという後背のリスク要因を抱えており、更にはシチリアの地では共和主義者たちの残党が、ポンペイウスの次男を旗頭に勢力を盛り返しつつある。
カエサルとしてはアントニウスとの決戦に臨む前に、ローマ帝国の西方を統一しておきたいのが本心だった。
しかし、その前にアントニウスにパルティア遠征に成功されては、致命傷になりかねない。
カエサルが言う時間とはそういう意味だと、マエケナスは完璧に理解している。
「...クレオパトラの思惑がどうあれ、元々エジプトは我々ローマの同盟国です。アントニウスであろうと誰であろうと、ローマの東方責任者にエジプトは協力する、という前提は我々も想定済みです。クレオパトラはカエサルを敵に回す以上、積極的にアントニウスに協力するでしょうが、それでアントニウスのパルティア遠征の成功率が変わる訳でもありませぬ」
「その点について、我々の想定と大きく異なる事態は生じないでしょう。...5年....5年から7年の間にアントニウスは行動に移ると思われますが、我々はその間にレピドゥスとセクストゥス・ポンペイウスを始末しておく必要があります」
カエサル陣営にとって痛いのは、表立ってアントニウスの妨害はできないという点だった。
ローマ人は教条主義的ではなく現実的、実利重視の民族だが、絶対の大前提として反国家的、売国的行為だけは絶対に許さない。
いくらアントニウスを妨害したいからと言って、パルティアに利を図るようなことをすれば、いかにカエサルと言えども政治的生命は終わりである。
千数百年の後、イタリアの思想家ニコロ・マキアベリは「目的の為に手段を選ぶ必要はない」...とは言っていない。
「目的の為に「有効ならば」手段を選ぶ必要はない」と言ったのである。
いくらアントニウスを妨害したいからと言って、パルティアに利を図るような真似をして、しかも露見した日にはカエサルと言えど破滅するしかない。目的に対して全く有効でないどころか、致命傷になりうる害悪が生じてしまう。
カエサルもマエケナスも共に卓越した政治家であるが故に、その政治力学における最低限の基礎は完璧に理解していた。
「クレオパトラとエジプトに関して、直接的な脅威が生じるのはその後のこととなりましょう。カエサルがローマ世界の西方を統一し、アントニウスと天下分け目の決戦に臨む時、エジプトは完全に敵に回るものと覚悟せねばなりませぬ。かの国の軍事力そのものは決して恐れるに足りませんが、その経済力に関しては脅威となりえます」
「...その意味でも、我らはローマ世界の西を完全に支配下に置き、それに備えねばならぬ...か」
「御意」
マエケナスの一連の分析に同意しつつ、若きカエサルは内心密かに全く別の視点の着想に気付いていた。
(...確かに私の敵が増え、アントニウスがより強大になる要因でしかないように見える...が、この状況、寧ろ逆に利用できぬか。エジプトの者共がアントニウスと手を組むというのならば、それは政治的には必ずしも私のリスクではなく、利点に化けぬこともない....)
カエサル・オクタヴィアヌスという若者は、軍事的な才幹という点では神君カエサルには全く似ても似つかぬ後継者であったが、その政治的な思考力、特に陰謀や謀略に関する立案能力と実行力については、確実に神君を上回っていたであろう。
約10年後、若きカエサルはエジプトが完全に敵対する状況を、完璧なまでに己の利益の為に活用してみせるのである...。
「....時に、アグリッパの方はどうだ。軍団兵の不平問題はどのような状態だ」
カエサルは話題を変えた。
カエサルの政治、謀略面を支えるマエケナスに対し、第一の腹心アグリッパはカエサル軍団の戦略戦術面を全て任されている。
何事もすべて一人で出来た「父」である神君カエサルと違い、若きカエサルはアグリッパとマエケナスという腹心に一切を任せる主義であった。