ログインする ユーザー登録する
投稿企画「#SEEKER」開催中!特設ページへ ▶

呂娥姁

使用したAI Dalle
西漢高祖劉邦の正妻、呂皇后20歳頃のイメージです。20歳頃の彼女は当然一介の庶民でした。

中国三大悪女の最初の一人であり、戚夫人に対する「人豚」の件は正史にも記載されている為、その残忍さだけが後世鮮烈に印象付けられていますが、史記における彼女に対する政治家としての評価は決して低くありません。

史記高后本紀は彼女をこう評しています。
「高后之時,黎民得離戰國之苦,君臣俱欲休息乎無為,故惠帝垂拱,高后女主稱制,政不出房戶,天下晏然。刑罰罕用,罪人是希。民務稼穡,衣食滋殖」

為政者...特に創業期の初代皇帝に続く守成期の君主(史記は彼女を実質的に皇帝と同列に扱っている)としては、これは最大級の評価と言ってもいい位です。

彼女が先帝の寵姫を「人豚」と呼んで虐殺しようが、先帝の庶子を餓死に追い込もうが、夫の遺訓を無視して呂氏一族を王位につけようが、庶民にとってはどうでもよい事です。

庶民にとって大事な事は、税や労役の負担が軽く、戦争が起きず、法律がシンプルかつ円滑に施行され、善政が布かれる事であり、権力者が劉氏だろうと呂氏だろうと男だろうと女だろうと、血みどろの権力争いをしていようと、庶民には何の関わりもありません。

その意味において、呂后は決して「悪女」ではありません。有能かつ堅実、民衆にとってはありがたい為政者だったとしか言いようがないのです。

彼女には、民衆に重税を課したり、労役を課して豪華な宮殿を作ったり、国庫を無視した贅沢に耽ったり...といった暴君暗君の所業は一切ありませんでした。

劉邦が残した有能な家臣団も基本的にそのまま継承して登用し続け、無用な粛清など行わず、実務上の停滞も生じていません。
(意外に思われる所だが、呂后は劉邦の譜代家臣団に対する粛清は全く行っていない。寧ろ彼らからは、劉邦生前から一貫して支持を受けていた。劉邦死後に逆らった王陵に対しても、彼が元は劉邦の兄貴分であり、かつ楚漢戦争時代、己の母を犠牲にしてでも劉氏家族を楚軍から救出しようとした大恩人という事もあり、左遷(しかも形式的には栄転)にとどめている。陳平、周勃らが反呂氏活動を具体化させていくのは呂后の最晩年になってから)

彼女は夫劉邦と同じく庶民の出身です。

劉邦という男には無数の欠点がありましたが、「庶民に重税や労役を課して苦しめてはいけない。皇帝が無用の贅沢に耽るなど破滅に向かって転落するだけだ」という権力者として最も重要な一点だけは生涯外しませんでした。

妻の呂后も、その一点においては健全な常識を持っていたというしかありません。司馬遷は、彼女が見せた残虐さと政治的事績は完全に切り離して、その点は公正に評価しています。

特に呂后において特筆すべき重要な政治的判断は、匈奴の冒頓単于に侮辱された時、一時は激怒して出兵しようとしたものの、季布(楚漢戦争時代は項羽の下で勇名を馳せた勇将。漢に帰順した後も剛直な人柄そのままに漢に仕え、一目置かれていた)の諫言に従って個人的な屈辱に耐え、戦争を回避した事です。

男の皇帝であってもなかなかできる事ではありません。しかも、この時匈奴が送り付けてきた書状は無礼かつ卑猥なものであり、呂后は女性としては最悪に近い侮辱を受けていました。

にも拘わらず国と民衆への負担を考慮し、かつ当時の漢の軍事力では強大な匈奴に対して戦略的にも戦術的にも勝算が立ちがたい点を冷静に判断し、一時の屈辱に耐えて平和を選択した処は、君主としては最大級に評価していい点です。

更に言えば、この対匈奴問題を審議する朝議において景気のいい主戦論を主張した樊噲は呂后の義弟で、季布は元は項羽に仕え、かつ何度も漢軍を苦しめた元敵将です。

呂后は身内の義弟の意見を退けて旧敵将の意見を採用しています。これもまた、暴君や暗君に出来る事ではありません。この一件だけを見ても、呂后には権力者として必要な冷徹な判断力が備わっていたと見るしかないのです。
(この時、季布は「かつて高祖が三十二万の大軍を率いて敗れた匈奴に対し、十万の兵で撃破などと豪語する樊噲は斬刑に値する」とまで主張している)

呪文

入力なし

Freedom_Samuraiさんの他の作品

Freedom_Samu…さんの他の作品

すべてを見る

おすすめ

Amazon

トレンド

すべてを見る

ユーザー主催投稿企画

すべてを見る

新着イラスト

すべてを見る

ちちぷいグッズ

ショップを見る