この時点では、劉邦も陳平も、そして勿論この一連の戦略を練った張子房自身も、当然ながら「そうする」つもりであったのだろう。
しかし、ここで一人の儒者による戦略提案がこの後の楚漢戦争の流れを大きく変えたのである。
史記高祖本紀曰
「漢王之出滎陽入關,收兵欲復東。袁生說漢王曰:「漢與楚相距滎陽數歲,漢常困。願君王出武關,項羽必引兵南走,王深壁,令滎陽成皋閒且得休。使韓信等輯河北趙地,連燕齊,君王乃復走滎陽,未晚也。如此,則楚所備者多,力分,漢得休,復與之戰,破楚必矣。」漢王從其計,出軍宛葉閒,與黥布行收兵」
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袁生とは何者なのか、実は全くわからない。
一説によれば戦国期の名門の末流だそうだが、正確な事はわからない。
この後、一度も史料に登場しない人物だからである。
名前すらわからない。「生」とは儒者に対する敬称であって固有名詞ではない。
面白いのは、只一度しか歴史に登場しない、名前も伝わっていないクラスの人物が、漢軍の大戦略について発言権を持ち、劉邦は勿論、張子房や陳平さえもその一儒者が提案した戦略に乗った事である。
当時の漢軍の組織内は、風通しが相当良かったことが伺われる。
劉邦の儒者嫌いは当時から既に有名であったが、漢の陣営には大勢の儒者が仕えている。
酈食其、叔孫通、随何、陸賈らは特に有名であるが、面白いことに劉邦は彼らをそれなりに重用しているのである。
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袁生の発想そのものは、かつての秦討滅戦争において当時は楚の一将でしかなかった劉邦軍が関中に入る為に、「天嶮」函谷関を避けて南の武関から侵攻した戦略に似ている。
そして、その戦略を立案したのが張子房であった。
さしもの天才戦略家張子房も、この時ばかりは長期の滎陽籠城戦とその苦戦によって心身共に疲労しきっていたのかもしれない。
元々、病弱の身である。
直線的に、函谷関を通過して最短距離で引き返し、滎陽を救わねばならぬ...という思考に取りつかれていたのであろう。
しかし袁生の戦略は、彼自身が述べているようにその直線的な戦略よりも様々な観点から、遥かに優れている。
まず、例え南の宛に劉邦が現れたとしても、項羽が滎陽を捨てて追ってくることは間違いない。
滎陽籠城も、元々は「項羽は劉邦本人を標的にしている」という項羽の性格....というか動物的習性を利用した戦略である。
その場所が宛になるだけの事...ではなく、更に戦略上の利点が複数ある。
まず、楚軍の補給線を引き延ばすことが出来る。滎陽から宛に移動してくるだけでも楚軍の兵站を圧迫することにはなる。
更に、袁生は述べていないが楚軍の主力が滎陽から南に移動することにより、その東、梁の地に位置する彭越軍が動きやすくなり、それによって更に楚軍の補給線を圧迫することが出来る。
元々、漢軍の戦略には楚軍の後背の梁の地で彭越にゲリラ戦を行わせて、楚軍の補給線を寸断する戦略が織り込まれているのだ。
しかし、ここまで彭越は目立った動きは見せていない。
滎陽と梁の地はそう遠くは離れていない。彭越としては、楚軍の主力二十万が近い位置にいる状態では動きにくかったのであろう。
そして、ここが最も重要な点であるが項羽が宛に転進することによって、滎陽に立て籠もっている周苛以下の将兵二万と、その西に隣接する成皋が救われ、将兵を休ませることが出来るのである。
特に滎陽城はその間に補給も出来よう。
この場合、短期的な戦略目標はまず滎陽を救う事である。
劉邦以下、張子房も陳平も、関中で兵力を補充して直接的に滎陽を救援せねばならぬ(元々、その前提で滎陽を脱出している)...と思い込んでいた訳だが、この場合漢軍の至近の目的は滎陽を救う事であり、必ずしも滎陽で直接項羽麾下の楚軍主力とぶつかる必要はない。
袁生の提案した戦略が秀逸だった点は、まさにそこにあった。
張子房も陳平も、まさに盲点を突かれた思いであったろうが、さすがの子房も、この極限状態下で心身が疲弊した余り、視野狭窄を起こしていたのかもしれなかった。
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「袁生の案をどう思うよ、子房」
劉邦は、袁生の戦略案の是非については勿論、張子房には諮問はしている。
「...袁生の献策、誠に見事と存じます。大王におかれましては直ちに袁生の策に従い、一旦は櫟陽(当時の漢の首都)に戻られて後、南道から武関を出て宛に入られるべきと存じます」
子房にとっては、所定の想定とは異なる提案ではあった訳だが、さすがにこの稀代の戦略家の判断は即断であった。
劉邦と子房のみならず、陳平、更には諸将の居並ぶ御前会議でのことである。
発案者の袁生も特別に列席を許されている。漢軍全体の戦略立案を統括する立場にいる子房に己の策を絶賛された袁生はまさに面目を施した形となり、頬を紅潮させて感激の面持ちであった。
この場合、漢軍の戦略を決定する実質的な権限は子房が握っていると言っても過言ではない。劉邦は誰であれ進言そのものを拒む事はないが、最後の判断は子房の意見に従うことがほとんどなのである。
仮に子房が袁生の策を非としていたら、如何に袁生の進言が優れていても却下されて終わる話なのだ。
(さすが子房殿の度量は、范増等とは比較にならぬ。並の策士ならば己の案に固執して、異なる策の発案者を排斥したがるものだが、子房殿にはその種の我が皆無なのだ。楚を打倒し、項羽を殺すという己の大目的に合致するものならば、何者であろうとも拒まぬ。策士たるもの、そうでなくてはならぬ...俺も精々見習うとしよう...)
陳平は席上、そんなことを思った。
更に、こう思わざるを得ない。
(...蒯徹も、余計な邪心を抱かず、子房殿や俺を己の障壁等と思うような小賢しい計算を働かせず、素直に滎陽に来れば良かったのだ。子房殿も、そして俺も、優れた人間やその策を妨害するような狭量な事はせぬ。ここに来れば蒯徹も、己の才幹を存分に活かせたであろうに)
...だが、蒯徹はその道を選ばなかった...処か、明らかに漢と劉邦の大業を妨げようとする側に回った...少なくとも陳平はそう確信している。
である以上、陳平としては蒯徹に対して最早、明確に「敵」という認識を固めているし、機会があれば容赦なく殺すつもりであった。
...
ただ、今の陳平も、そして漢軍全体がそれ処ではない。
戦略上の大筋はそれで良いとしても、陳平としては戦術上の懸念はこの場で質しておかねばならない。陳平は劉邦に発言の許可を求めた。
「陳平には何か存念があるか ?」
劉邦という男もまた、常にそうだが誰の意見も拒まない。
「大筋においては、臣にも何の異存もございませぬ...袁生の策はあらゆる点でまさに卓見でございましょう。ただ、臣としては宛における具体的な戦の手立てを如何に立てるか...その一点に対して、聊か懸念を感じております」
陳平は、率直に己の見解を述べた。陳平は宛という都市そのものを知らない。