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何故、陳勝は扶蘇を詐称したのか...資料から抹殺された「母」の秘密とは

使用したAI Dalle
大秦赋(邦題「始皇帝 天下統一」)全78話看完了。中国語勉強の為、日本版ではなく中国版視聴。

最新の研究を随所に反映させた大作。

このスケールで見てしまう(予算の桁が違う)と、日本の大河ドラマなどチープ過ぎて見ていられない。俺の少年時代や若い頃...1970-1980年代の大河ドラマはもっとマシだったのだが。

...

史記陳勝世家には異様な記述がある。

陳勝曰:「天下苦秦久矣。吾聞二世少子也,不當立,當立者乃公子扶蘇。扶蘇以數諫故,上使外將兵。今或聞無罪,二世殺之。百姓多聞其賢,未知其死也。項燕為楚將,數有功,愛士卒,楚人憐之。或以為死,或以為亡。今誠以吾眾詐自稱公子扶蘇、項燕,為天下唱,宜多應者。」吳廣以為然。

呉広が項燕(項羽の祖父)を詐称したのはわかる。

かつての楚の名将であり、楚人を奮起させ、反秦感情を燃え上がらせることが出来る名前だからだ。

しかし、扶蘇とは秦の始皇帝の長子である。

確かに賢明かつ人徳の高さを以て天下に名を知られ、天下の庶民にも人望があったとされるが、秦の皇子であることに変わりがない。

秦に反逆し、事実上楚の復古革命であった筈の陳勝と呉広の決起において、よりによってなぜ秦の皇子の名前が使われたのか。古来より、その点は合理的に説明はされたことがなかった。

その点において近年は、その母の血筋に秘められた理由があるとする説が有力視されている。

日本の研究者も近年その説を提唱するようになっており、大秦赋においても概ね近年の学説に沿った設定になっていた。

即ち、扶蘇の生母を楚の王室に連なる女性であったとする仮説である。

状況証拠はある。

藤田勝久氏は著書『項羽と劉邦の時代』(※俺も買って、持ってるよ)の中で、始皇帝の秦王時代に秦に滞在し、丞相迄務めたことがある楚の王族昌平君(※後に、楚の亡命政権の王となり、秦との戦いにて戦死)こそ、史料から抹殺されている扶蘇の生母の存在に深くかかわっていると仮説を立てた。

過去の秦王も楚の王族の姫を妃に迎えた例はあり、始皇帝の妻の一人に楚の王族がいてもおかしくはない。

昌平君が一定期間、秦に滞在滞在した理由も始皇帝の妻の一人が楚の王族だったとすれば、当然ありうることなのである。

そして後年、陳勝が「秦に反逆し、楚を復興する為の決起」に際して、なぜよりによって秦の皇子の名前を持ち出したかも説明がつくのである。

というよりも、それ以外に合理的な説明がつかない。

扶蘇は秦の皇子ではあるが、母方を通して楚の王室の血も引いていた...という事実でもない限り、陳勝が扶蘇の名前を詐称する合理的な理由がないのである。

しかし、何故か現代に至るまで、その点に関して合理的な考察は全くされてこなかった。史記はどういう訳か、始皇帝の妻に関して一切の記述がない。

...

中国史の面白さは一つ、少なくとも古代史においてはタブーが少なく、各史跡の発掘作業も考古学的検証もどんどん進み、史記などの正史と突き合わせて、次々に新しい事実が発見され検証されていく点にある。

タブーだらけでろくに発掘も研究も出来ない日本史に比べて圧倒的な自由があるのだ。

中国の史跡発掘作業には日本の研究者も多くが参加しているが、俺が彼らの立場でもそっちに参加するだろう。タブーだらけにされてしまった日本古代史なんぞより研究者としてははるかにやりがいがある。

特に20世紀後半以降、これら考古学的な発掘作業と出土物の検証によって例えば、古来より曹操による捏造説があった孫子は本当に原典が存在することが判明し、「曹操が捏造してでっち上げた」とも言われてきた孫子の注釈書は飛躍的に史料的価値が高まることになった。
(曹操は現代になって、やっと偽書捏造の汚名から名誉回復を果たしたのである)

また、史記においては「同時代のライバル」とされている蘇秦と張儀も、有力な古文書が発掘されたことにより、現在では別の時代に全く無関係に生きた二人であったことが有力視されるようになっている。

歴史学とは常に進歩していくものなのである...が、日本はそうではないらしい。
(中国史は近代以降から現代に近づくほど不自由だが、少なくとも古代史や中世史に関しては圧倒的に日本より自由)

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