「...将軍はよしてくれ。アグリッパでいい」
マルクス・ヴィプサニゥス・アグリッパは言った。
共通の主君...即ち若きカエサルに参謀として使えることになったガイウス・キルニウス・マエケナスという青年と知り合って、間もなくのことである。
この青年は、十九歳の若き主従より勿論年長なのだが、そんなに歳は変わらない。
しかし、初めてアグリッパと出会ってから、マエケナスはカエサルのみならずアグリッパをも常に己の上位者として位置付けているらしく、アグリッパ将軍と呼び丁重な物腰と言葉遣いを続けている。
それ自体にはアグリッパも悪い気はしないのだが、そろそろこのカエサルの左腕とも言うべき存在の青年と、心底を打ち明け合って話したいと思っているのだ。
「私は将軍といってもまだ名ばかりの若造だし、君の方が年上だ。それに私も、カエサルの友となる男とは、友でありたいと思っている」
マエケナスは、アグリッパの顔...というより目をしばらく凝視していたが、ふっと笑った。
この渾身智謀でできているような男でもこんな顔をするのかと、アグリッパは思った。
「...君はやはり私が見込んだ通りの男だった、アグリッパ」
マエケナスは急に口調を変えた。
「私の方こそ、そうありたいと願っていた。カエサルに共に仕える者として私は、君とだけは友でありたいと思っていた。またそうでなくては、我らがカエサルがローマ世界の全てを手に入れる事は出来まい」
やはり、この男は若きカエサルの為に同じ景色を見ていたのか。
それがわかっただけでも、今ここでこの底知れぬ智謀を持つらしい男と本心をぶつけ合う意味はあった。アグリッパはそう思った。
「...君はなぜ、カエサルに仕えようと思った」
「私は元々、大カエサルに仕えるつもりでいたのだ。その願いは最早永遠に叶わぬが、その結果私は大カエサル以上の主君に巡り合えたのだ。神々の計らいとは、時に実に皮肉であるらしい」
「わかる気はする。君は騎士階級の出だ」
アグリッパにはマエケナスの気持ちがわかる気がした。
共和制とは言い条、元老院階級が事実上支配階級として固定化されている共和制ローマでは、どんなに経済力があっても騎士階級の人間が活躍する場は限られてしまう。
しかし、亡き大カエサルはそんな硬直化した共和制を破壊し、騎士階級や平民、更には属州民にさえ元老院の議席を開放したのだ。
マエケナスのような才能ある騎士階級の若者が、大カエサルの目指す新しいローマに希望を見出したのも当然のことだろう。
しかし、大カエサルは暗殺されてしまった。
残されたのは、海の者とも山の者ともわからぬ18歳の少年、ガイウス・オクタヴィウス...即ち今のカエサルだ。
最初から大カエサルに見いだされてカエサル付きを運命づけられているアグリッパはともかく、マエケナスがここまでまだ19歳のカエサルに入れ込む理由とは何か。
アグリッパはそれを知りたかった。
アグリッパは短い付き合いだが、このマエケナスという青年がカエサルが大業を成し遂げる為には不可欠な人材であるとほぼ確信するに至っている。
だからこそ、その本心が知りたかった。
「...私は勿論、大カエサルの遺言とはいえ直ちに我らがカエサルの真価を理解した訳ではない。第一、ガイウス・オクタヴィウスという存在すら知らなかったのだ」
「しかし大カエサルの死後、後継者に指名されたカエサルの行動を逐一知って、すぐにわかった。彼は政治家としては大カエサルをも凌ぐ才幹の持ち主かも知れぬと」
マエケナスの言葉が熱を帯びてくるのがアグリッパにはわかった。この男が本性を見せる時、本音を曝け出す時はこうなるらしい。
この「熱」を感じたからこそ、アグリッパはマエケナスという男を信頼する気になったのだ。
「大カエサルの死と遺言の内容を知らされてからのカエサルの行動と選択の的確さは、人智を超えているとさえ言っていい。それも18歳の若さでだ。恐ろしいと言う以外にない。アグリッパ、君はその間カエサルと全てにおいて行動を共にしていたはずだ。そうは思わなかったか」
「...私も同感だ」
アグリッパは首肯した。マエケナスの畏怖が彼にもよくわかる。
アグリッパも同じことを思っていた。カエサルと行動を共にしつつ、その恐ろしいほどの慧眼、深謀遠慮、その全てに、この人は人間かとすら思った。
マルクス・アントニウスが敵に回ったとみるや、私情を全て捨ててかかって本来は敵であるはずのキケロを懐柔する着眼点、かつ実際にキケロを完璧に騙してのけた演技力、アントニウスに遺産の全てを横領されたというのに、想像を絶する方法で金策の限りを尽くし、大カエサルの追悼記念式典を挙行し成功させた企画力と行動力。
カエサルにとっては父親のような年齢の旧カエサル派の重臣達も、いつの間にか18歳のカエサルに心服していた信じがたい事実。
その全てがほぼ半年足らずに成し遂げられたのだ。
大カエサルですら、18歳でここまでではなかったはずだ。
「...私は確信した。我らがカエサルは、政治家としては大カエサルを超える可能性がある。しかも大カエサルの志を継ごうという意志は明らかだ。ならば私が彼に仕えることを躊躇う理由がどこにあろう」
マエケナスは言葉を続けた。
「更に重要な事を私はローマに来て知った。それはアグリッパ、君の存在だ」
「私が? 私が、君の選択に何か影響を与えたというのか」
「...そうだ。以前も言ったはずだ、君はもっと自分を高く評価すべきだと」
そう言えば、そんなことを以前も言われたなとアグリッパは思い出した。
「...最高権力者とは普通、君のような存在は持たぬものだ。大カエサルにさえ君のような存在はいなかった。君のような「絶対的なNo2」は、一般論としてはNo1にとって危険な存在なのだ。一つ間違えば、No.1にとって代わる可能性があるからな。ところが我らがカエサルと君に限っては違う」
「確かにカエサルは万能の天才ではないらしい。特に軍団の指揮ができない。だが、いくら君が腹心の友とはいえ、他人に平然と兵権を渡してしまう権力者など普通はいないのだ。ところが我らがカエサルは平然とそれをやる。それは無論カエサルの偉大さではあるが、それだけではない。アグリッパ、君もまた不世出のNo.2たりうる稀有な人間だからだ。カエサルが不世出の政治家ならば、君は不世出のNo.2なのだ」
「どちらも、歴史上それほど多く存在するものではない。しかし今、私の目の前にはその「不世出の政治家」と「不世出のNo.2」が同時に存在し、しかもその両者は絶対の信頼関係と友情で結ばれているのだ。人界の歴史上これほど奇跡的な組み合わせは、二度と存在しないかもしれぬとさえ私は思っている」
...またも、アグリッパはマエケナスの「熱」に圧倒された。
この男は、普段飄々として決して心底を見せるようなことをしないが、一度その本心を語る時、異様な熱と共に言葉を発するらしい。
「...私は確信した。君たち二人がこれからやること、やろうとしている事は人界の歴史において、永遠に語り継がれる偉業になると。だから私は思ったのだ。私もその大業の一翼を担う身になりたいと」