※尉遅敬徳の使う「鞭」とは鉄製棒状の打撃用武器であり、日本人が考える革の鞭ではありません。秦叔宝が使う鐧と、基本的な理屈は同じ武器です。
水滸伝に登場する天威星、双鞭呼延灼が使う「双鞭」というのも、二本の鉄鞭の事です。「鞭」という漢字で勘違いをする日本人は多く、故横山光輝氏が漫画「水滸伝」でこの勘違いのまま作品を書いた影響もあると思われます。
なまじ漢字を使う為に誤解しやすい中国語は他にもあって、中国語で「娘(ニャン)」とは、日本で言うところの娘の事ではなく「お母さん」「母上」という意味です。中国語において皇后陛下は「皇后娘々(ホウホウニャンニャン)」ですが、「母」を意味する「娘」を重ねることにより、皇后への最大級の敬称となります。
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「...どうあっても戦うと言われるか」
秦叔宝は嘆息した。
...尉遅敬徳の言にも理はある。敬徳の人物も、全く畏敬すべき英傑であることもよく分かった。
その上で尚、今は戦うしかないようであった。
「中原に天下無敵の名を轟かせた秦将軍と、北辺の辺境に生まれ、今日まで無名の生を過ごしてきたそれがしがこうして手合わせを願えるのもまた、天のお導きでござろう。敬徳、まさに武人の本懐でござる。いざ参られよ...それがし、例え如何なる結末を迎えようとも悔いはござらぬ」
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百二十斤の双鐧と、百二十斤の鉄鞭の激突であった。
一撃の打撃力と間合いの広さでは敬徳が勝り、技の多彩さと防御力では叔宝に一日の長がある。
敬徳が繰り出す暴風の如き一撃を、叔宝は双鐧を自在に操り、己の体までは寄せ付けない
しかし、叔宝の両腕が繰り出す変幻自在の打撃も、敬徳は全て鉄鞭一本で受け切っていた。
激しい金属同士の打撃音が戦場に響き渡る。
唐軍も、劉武周軍も、誰もが一言を発しなかった、否、発することが出来なかった。
通常、先鋒同士の一騎打ちにおいては互いに士気を高めるべく、両軍将兵の喊声が響き渡るものである。
しかし、
まさに竜虎の戦いの如き両雄の一騎打ちに誰一人、声を発することさえ出来なくなっていた、忘れていた。
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「...殿下..秦王殿下 !」
秦王李世民は、繰り返し呼ぶ声に我に返った。
声の主は房玄齢であった。
李薬師、李懋功の二将軍が世民の軍事面での参謀役ならば、房玄齢は世民の政治、謀略面の参謀を担当している。
隋代に既に科挙に合格している大秀才で、将来を嘱望されていたが、今年から世民に仕えている。
皇帝でもなければ皇太子でもない。
次男の秦王に過ぎぬ世民が、彼のような人材を麾下に集めているのは、密かな彼の大望に基づくものだ。
ただの「秦王」、皇帝の次男で終わるならば、房玄齢のような宰相級の人材は過ぎたものなのだ。そのような大才を麾下に招く...世民は既に、天下を統一した先を見据えている。
余は只の諸王..秦王で終わるつもりなど毛頭あるものか。
余が最終的に欲するものはこの天下そのものだ。
例え兄であろうと、その邪魔をする者は許さぬ...近い将来、余は兄と次代の皇帝の位をかけて争うことになろう。
その為には、天下を狙う為の人材が必要なのだ....
「....殿下 ! このままでは決着がつきませぬ。いや、それ以上に秦将軍に万一あらば、我が軍の士気は崩壊しますぞ」
当代随一の智謀を以てなる房玄齢も、ここは必死であった。
まだ緒戦に過ぎぬ先鋒同士の一騎打ちなどで、この先の大計を失う訳には行かぬ。
「いや、秦将軍にそれはあるまいよ。確かにあの尉遅敬徳という男、恐るべき強さだ。しかし秦将軍はこの戦い...例え勝ちを得ずとも絶対に負けぬ。それ位は余にもわかる。秦将軍の強さは絶対的な経験の豊富さに裏付けられている。その一点においては尉遅敬徳も秦将軍には及ぶまい」
「...だとしても、このままでは時が無為に過ぎるだけですぞ。秦将軍とて人でございます。疲れはいたしましょう。決着がつかぬならつかぬで、此処は引き上げの銅鑼を鳴らすべきです。あの尉遅恭と互角に戦える剛の者が我が軍にもいるのだ、と彼我の双方に理解させることができただけで十分です。我が軍の士気も持ち直しましょうし、であれば、叔宝殿にこれ以上無為の疲労を負わせるべきではございませぬ」
「...薬師はどう思う ?」
世民は、傍らに控えて終始無言の総参謀長に尋ねた。房玄齢が、世民にとっての張子房、陳平ならば、李薬師こそは世民にとっての韓信である。
「...玄齢殿の言が正しいと愚考します。程将軍と秦将軍のお力によって、ひとまず我が軍の士気も持ち直しました。最終的な決着は個人と個人の一騎討などではなく、全軍の進退、用兵の優劣によって決まるものです。秦将軍にはその大局の勝敗を決する戦場で活躍していただかねばなりません。その大事の為に、秦将軍にはそろそろ御休息願うべきかと」
「...懋功、ここで秦将軍に引き上げを命じるとして、秦将軍はそれで気を悪くされたりするお方か ?」
世民は、今度は瓦崗寨以来最も叔宝と付き合いが長い懋功に意見をただした。
世民は秦叔宝に、麾下の武将中別格とも言うべき気遣いをしている。純粋に戦場における戦闘能力という点で、天下一の武将と評価しているからだ。
いかに優れた作戦を立てても、戦場においてそれを完璧に遂行しうる者がいなくては戦には勝てぬ。その点において現在、秦叔宝に優る者はこの天下にいない。
そのような英傑が、王世充を見限ってわざわざ麾下に参じてくれたのである。世民に、天命というものが確実に己の上にあると確信させた出来事だった。
「叔宝殿は、そのようなお方ではありませぬ。常に大局を見て、大事の判断を誤るようなお方ではございません。そのようなお方だからこそ、隋朝以来百戦を経てただの一度も不覚を取らなかったのです」
...懋功はかつて、河南討捕軍時代の叔宝と戦ったことがある。
反隋革命軍の拠点、瓦崗寨の主だった翟譲と李密の麾下だった懋功が河南討捕軍を殲滅するための策を立案し、当時の常勝将軍だった張須陀を完璧に罠にはめて完勝し、張須陀を殺したのである。
しかし、その完璧な作戦をもってしても、殺せなかった者が二人いる。
張須陀の副将であった秦叔宝と羅士信であった。
用兵家、兵法家として、懋功は個人の武勇というものを最重視している訳ではない。でなければ、兵法というもの自体が存在する意味がない。
しかし、この世には常識の埒外、理論の外に存在する個人的武勇というものが存在することを、懋功は秦叔宝と羅士信によって学んだのであった。