婚約
恒山王張耳は、劉邦に拝礼して感謝を述べた。
「よしてくれ、大哥....俺と大哥の仲じゃねえか。大哥に拝礼なんぞさせては申し訳なくていけねえ...ここは公の場じゃねえしよ、昔のまま、劉季でいいんだぜ ?」
...代と趙両国を統べる陳余が、反項羽同盟に加わるにあたって付けた条件が、「張耳を殺して首をよこせ」というものであったが、劉邦は陳平の策に基づき、偽首で陳余を騙すことにしたのである。
張耳に終生隠れたままでいてもらう訳にも行かぬ以上、後日どこかで露見するのは仕方ないが、項羽を殺して天下を手中にすれば、陳余がどう思おうと恐れるものではない、と劉邦は高をくくっている。
で劉邦としては、煩わしい難題は陳平や張子房に任せて、この古い付き合いの兄貴分と酒を酌み交わしているところであった。
「...身に余るお言葉ですが、往時とは違います...今、臣一人が漢王に対して昔のまま振舞えば、そういう"もの"は必ず公の場でも知らず知らずの内に表に出るものです。それでは他の臣下に示しがつきませぬ」
張耳はあくまでも謙譲な姿勢を崩さなかった。
劉邦としては聊か気詰まりでもあるが、悪い気はしない。
「そ、そうか、大哥に「臣」とか称されると何やら妙な気分なんだが、大哥がそれでいいならいいさ」
張耳は、「漢王」としての劉邦の性格を注意深く観察している。確かに賞賛すべき広大な度量の持ち主ではあるが、同時に決して猜疑心を持たぬ男と言う訳ではなさそうであった。
張耳は歳も取って、もはやこの天下に群雄として立つ気概は持っていない。穏やかに一定の所領を得て、劉邦の天下の下で忠実な一諸侯で余生を送れればよいと思っている。
息子張敖の将来も考えてやらねばならぬ。
であれば、今劉邦に昔の兄貴分面で馴れ馴れしく対することは後々問題になりそうであった。
今は良くても、後日必ず災いがありそうに思える。
ただそれはそれとして、張耳としても劉邦との旧交を温めることはやぶさかではない...どころか大いにその気であった。
「....ただ、漢王が臣の家におられた往時の事は懐かしく思い出しますな...あの頃は、お互いに若うございましたなあ....」
劉邦も段々心地よく酔ってきた。
「そうさなあ...もう何年前の事だろう。俺は信陵君が好きだったから、君の下で食客だった大哥に会って信陵君の話が聞きたかったんだ。最初はそれだけのつもりだったんだが、ついつい長居しちまったんだ...大哥にはえらく世話になっちまったなあ」
「俺は大哥が妙に好きになっちまってなあ....それでずるずると長居しちまったのさ。その挙句に義兄弟の杯を交わすことになった。その俺たちが今や、「君」どころか「王」なんだぜ ? あの頃、こんなことになろうとは想像もしなかったよな」
「誠に、左様でございます...人の運命とはわからぬものです。臣もよもや刎頸の交わりを交わしたはずの陳余とか様な羽目になろうとは、不明にして想像もできませんでした」
張耳は嘆息した。...本当に人の運命も、国の運命もわからぬ。
陳余と二人で命をかけていた秦帝国との戦いの日々も、今では幻の様だ。そもそも秦帝国自体が既に存在しないのだ。
「...大哥、もう陳余の事は気にするな。奴に奪われた国も、いつか俺が代わりの領地をどこか探してやるからよ...そしたら、大哥はまた元通りの王だぜ」
「か、漢王...!」
感極まった張耳はも再び劉邦に拝礼した。
...先刻、犬馬の労を尽くすといったのは、社交辞令でも追従でもない。
口は悪い、柄は悪い、品がない、傲慢...とにかく欠点を挙げると無数にある男なのだが、こういう時には、この男の為に命も惜しくないと思ってしまう自分に、改めて張耳は自分で驚いてしまう。
再度拝礼する張耳に、劉邦は大笑する。
「大哥、そんなに何度も頭を下げるもんじゃねえぜ....俺の方がきまり悪くなっちまうだろうが。...何たって俺たちは兄弟だ、俺と大哥の仲は、陳余の野郎とは違うんだ。さあ飲もうぜ」
...
二人は大いに飲み、語った。
若き日々の事、秦打倒の戦いの事...語ることは尽きない
「....時に大哥、一つ相談があるんだが」
珍しく劉邦が居住まいを改めて、語り始めた
「...数年先の話にはなるが、うちの娘の縁談の事だ」
張耳は、劉邦の家族構成を頭に思い描いてみた...確か十歳くらいの娘がいたな...しかし、それが何だというのだろう
縁談 ?
「歳がえらい離れちゃいるんだが....大哥の息子、張敖の嫁にどうだろう ?」
「....!」
張耳は絶句した。さすがに想像の遥か斜め上の話である。
「か、漢王....誠でございますれば、それは息子にとっても当家にとっても誠に名誉の限りではございますが....その...よろしいのですか ? ご夫人の御了解などは ?」
「いや実は、その娥姁(呂稚の字)の勧めでなあ....あいつはどうも大哥の息子が気に入ったらしいんだ」
...張耳は更に仰天する思いだった。
確かに一度、漢王夫人に家族揃って挨拶はしたが....一度会っただけではないか
「あいつは、娘を格下の家臣の嫁にはやりたくないらしい....俺と対等の王族でなければと言うんだ。しかし、このご時世だ...旧六国の王族なんてもうほとんど生き残ってねえ。現役の諸王を見渡してもなあ...はっきり言っちまえば、いつ敵に回るかわからんのだ....今回は項羽と戦う為に同盟はするけどな。そんなところに娘をやる訳にも行かねえだろ ?」
「信頼できる王と言えば...子房の肝いりで韓王にしてやった韓信(※大将軍韓信とは別人)位か....そこへ行くと大哥の息子だ。何たって、俺にとっちゃ義理の甥だ....身内なんだよ。娥姁のやつもそこが安心できるらしい」
「あとまあ、張敖もなかなかの男らしいからな。聞いてるぜ ? 秦との戦いでは大哥を補佐して副将として戦ったんだってな。王の息子と言ってもぼんくらじゃねえ...修羅場をくぐってきた男だ」
半ば呆然として劉邦の言葉を聞いていた張耳だったが....何とか言葉を絞り出した。
「不肖の息子をそこまで評価していただけたとは、張耳...感激の余り言葉もございませぬ。息子共々、改めて漢王に忠誠を誓わせていただきますぞ」
「...ただ、聊か申し上げにくいことですが...恒山王と申しましても、今の我ら父子には一片の領土もなければ一人の兵士もいない、名ばかりの王でございます...しかも、陳余の目からしばらくは身を隠さねばなりませぬ。そんな我らが漢王のお役に立てるか、聊か心細くはございますが」
呪文
入力なし