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張耳と韓信 其三

使用したAI Dalle
「.....これも時代なのでしょう」

子房のその一言だけで、陳平はこの稀代の戦略家が陳平の問わんとする処を全て理解していることを悟った。

(恐ろしい人だ....全てお見通しか。だからこそ、この男を敵に回す訳にはいかぬ。己の為にも、そして漢の為にも)

「陳平殿は、こう言いたいのでしょう...私の忠誠心の対象は漢にあるのか、それとも韓にあるのかと」

「ご明察、恐れ入ります」

張子房という男が、西楚の覇王項羽に対して「必ず殺してやる」という絶対的な憎悪と殺意を向ける理由は、純粋に復讐であろう。子房自らが擁立した韓王成を殺した項羽を、子房は絶対に許すまい。

それは良い。

陳平が考える処、この稀代の天才が楚と戦う理由が「復讐」という完璧な私情であっても一向に構わぬ。

今重要なことは、子房の天才的な戦略眼が漢の勝利の為に発揮されるというただ一点であり、陳平としては本質的には子房の動機が何であろうと、復讐だろうと野心だろうと私利私欲だろうと魂の底から知った事ではない。

しかし今後、漢軍の戦略...というより来るべき「帝国」樹立に向けての漢王朝の基本的な政治方針は「封建制は現状では一部認めざるを得ないが、本心では基本的には認めたくないし、将来的にはなるべく秦のような郡県制による中央集権を目指す」とはっきりしているのだ。

現時点、子房の祖国である韓と漢はほぼ一心同体と言ってもいい関係ではあるが、将来的に韓の地位がどうなるかはわからない。将来において独立の地位が失われることはなくとも、領土を削減されたり、王の地位に劉邦の一族子弟が送り込まれてくる事態は十分にありうる。

そして子房の慧眼には、その位のことは当然見えている筈なのだ。

韓の再興を志して劉邦に協力してきた子房は、その上で尚、韓の為ではなく漢「帝国」の勝利の為に戦うことが出来るのか。陳平はそれを懸念している。

...しかし、陳平は子房の「これも時代だ」という一言で、全てを察した。

この男は何もかもわかっている。その上で今、全ての策を練り上げているのだと。

そして子房もまた、陳平の表情を見て己の一言で子房の内心を全て悟ったことを知ったようであった。

「...陳平殿は恐ろしい人ですな。あなたの前では私も何事も隠せぬような気になってくる」

子房は柔らかく微笑した。

(この男も、こんな顔をするのか)
元々女性のように繊細かつ秀麗な容姿の男であるだけに、陳平は思わず見とれた。

「私は勿論、韓という国がなくなって良い...とは思っていません。将来、我が漢が天下を取った暁には、韓王は漢に対して明確に臣礼を取らねばならぬことも、よくわかっております(今は実態はともかく、建前上は対等である)」

「今の韓王は韓の旧王族出身ではありますが、元々布衣(庶民)の身分に落魄していた処を漢王が王にまで引き立ててくださったのです。その恩は決して忘れておりませぬし、決して漢に対して裏切るような真似はなさいますまい。そして、韓が漢に対して忠実である限りは、大王(劉邦)もまた韓に対して一定の配慮はしてくださるだろうと信じております」

子房は淡々と、現状認識について語った。その観測は勿論、陳平の見立てとも完璧に一致する。

「...しかし、この世の事は須らくままならぬもの...将来、韓が漢に対して絶対に背かぬ...等と言い切る事もまた出来ません。そして、陳平殿は仮にそのような最悪の事態に陥った際の、私の去就について懸念をお持ちなのだと拝察します」

陳平は決して、この場で多くの事を語ってはいない。かつ子房との付き合い自体も短いものだ。

しかし、この恐るべき戦略眼を持つ男は、個々の人間観察の力においても恐るべき心眼を有しているらしい。こんな男を敵に回しては命がいくつあっても足りぬ...と、陳平は改めて戦慄した。

「....ご慧眼、恐れ入ります」

「陳平殿の御懸念は御尤もですが、今の私は韓の宰相ではなく、漢の成信侯(※子房には爵位はあるが定まった官職がない)です。己が今どの国からご恩を被っているかは、よく理解しているつもりです」

「...これも時代なのでしょう...従来の封建制は少なくとも八百年...商(殷の事)の時代も諸侯封建が行われていたとすれば千数百年ですな...の長きにわたって続いてきました。しかしその間、特に周の治世後半の数百年は、諸侯王の争いと戦乱が絶えず、天下万民が塗炭の苦しみを味わい続けてきた事もまた事実です」

「我が祖国を滅ぼした秦は、私にとって絶対に許すことが出来ぬ仇でした。またその暴政に天下の万民も苦しんだのです。天下が統一されたとて、その下で万民が暴政と悪政に苦しんだのではその統一に何の意味がありましょうや」

「しかし、秦を滅ぼし韓を再興する為に私は大王の下に身を寄せ、結果的に大王の寛容と丞相(蕭何)が布かれている善政を知りました。この漢という国の下でならば、秦が成しえなかった統一王朝の下で広く善政が布かれ、天下の万民を安んじることが出来るかもしれぬ...この漢という国にその希望を見出した点において、私の見立ては陳平殿と何ら変わる処はありません」

...やはり、この男の慧眼は全てを見通していたか。陳平は思った。

軍を率いる大将軍韓信の用兵の才はまさに千年に一人...という類のものではないかと陳平には思えるが、この張子房という男の物事を見通す眼力もまた人界の奇跡としか思えぬ。

そして、後方で内政に専念する丞相蕭何...あの男の政治運営と行政処理能力もまた、陳平は歴史上のあらゆる「宰相」の上をいくものだと思っている。

それほどの稀有な才能を持つ人間が三人、しかも同時代に存在し、更には同一の主君に仕えている...そんな奇跡が人界の歴史に存在したか...否、以降の歴史においても存在するのか、とさえ陳平は思った。

故に、陳平ほど自尊心も自負心も強い男にして、この張子房という男に対して率直にこう口にした。

「子房殿のお覚悟、陳平しかと心に刻みました。またそのお覚悟を疑うかの如き私の不明、ご無礼をお許しください。子房殿の御本心を伺ったからには、この陳平、我が全知全能を傾けて子房殿と共に力を尽くし、我が漢と大王の大業成就の為に身命を捧げる所存です」

...そんな陳平の気負った言葉に対し、子房は再び笑みを浮かべた。

「それにしても、陳平殿もまた面白い方ですな」

「とは、いかなる意ですかな ?」
陳平はその真意を測りかねたが、子房に悪意はなさそうであった。

「私が今、楚と...というか項羽と戦う真意は、陳平殿が御推察の通り純粋に復讐です。私はあの野蛮な男を絶対に許さぬ。あの男がこの現世にて呼吸する権利すら私は認めない。必ずや完膚なきまでにあの男を打ち倒し、殺してやります。あの男に殺された我が旧主韓王成の無念を晴らすまでは、私の怒りと憎しみは決して消えませぬ」

子房は凄惨なまでの笑みを浮かべ、陳平は悪寒を覚えた。...項羽の最大の失敗はかつて劉邦を殺せなかった事よりも、韓王成を殺し、この男を殺せなかった事ではないか。

「...一方で私は項羽を殺し、漢が天下を平定した後の政治に関しては全く関心はないのです。私がやれることは純粋に戦う為の策を主君に献じることでしかない。言ってみれば、私が才を発揮しうるのは戦に勝つための策を立てて人を殺すことだけです。人殺しの為の策を考えることは得意でも、人を生かす為の政治は私には向いていないのですよ」

子房は淡々とした口調で、凄惨なまでに身も蓋もないことをあっさりと言ってのけた。

「しかし陳平殿は違いますな...忌憚なく申し上げれば、あなたにとっては逆に戦そのものが目的ではありますまい。あなたにとって大事なのは戦よりも、漢が天下を取った後の事でしょう...陳平殿が御若年の頃に故郷で残された言葉は聞き及んでおりますよ。あなたの目的...野心は、天下を取った漢の廟堂において宰相の地位に就き、思う存分才幹を振るう事でありましょう ?」

陳平は、全身に冷たい汗が滴る己を自覚していた。この男は一体どこまで物事を見通しているのだ。

「...私の本心もそこまで見通されていたのでは...私の方からは何も付け加える言葉がございませんが、しかし面白いですかな ? 私の野心など、それほど珍しいものでもありますまい。陳腐とすら言ってもいい位だ。歴史上ありふれたことだと思いますが」

「...面白い、という私の物言いがお気に障ったのであれば私の不徳の致すところですが、陳平殿はある意味稀有なお心をお持ちの方ですよ。陳平殿が漢の宰相を目指される以上、蕭丞相は政敵...とまでは言わずとも競争相手ではありませんか。しかし、陳平殿と話をしていると心底蕭丞相の手腕に心服なさっておられるし、本心から尊敬されておられるようだ」

「私が見る処、陳平殿の策略を立てるお力、陰謀を巡らすお力は、私などよりも遥かに上手のようにお見受けします。しかし、私は同時にこうも思うのです。陳平殿は決して私心の為にそのお力を行使することはせぬお方であろうと」

「歴史上、陰謀の才に恵まれて策士として名を残した者は大勢居りますが、陳平殿のように「それ」が出来る人間は、それはそれで尋常の器ではありませんよ。故に「面白いお方」と申し上げました。...そもそも、陰謀の才をいつ味方に向けるかわからぬようなお方では、危なくて共に天下の大事を諮ることなどできませんからな」

子房の指摘は、陳平の意表を突いた...が、子房が心中己に課している矜持を理解してくれていることに我が意を得たりという気持ちでもあった。

「...全く、子房殿のご慧眼は人の世の事であれば見通せぬものはないのか、とすら思えてきますが。私は確かに陰謀や策略を得意としておりますし、権力を得たいという欲も、その権力を己の思うまま存分に振るいたい欲望も人並以上にあります。が、今善政を布いている丞相を追い落として迄、それを得たいとは確かに思いませんし、ましてやその丞相の力量を認めぬ等、愚かな無能者の所業でしかないでしょう。私は、己が将来その地位に就いた時の為に、今は存分に丞相から学ばせて頂くつもりですよ」

「そもそも、そんな不毛な事をしても私を含めて誰も何の得もせぬではありませんか。大王は史上類を見ないほどの賢相を失い、民は善政を布いている宰相を失い、私はその丞相から学ぶ機会を失い、更には比類ない賢相を失脚させた佞臣奸臣として千載に悪名を残す...誰にも何の得もないではありませんか。確かに歴史上そのような愚行をやってのけた愚物どもは大勢いましたが、私は己がそんな連中と同一視される屈辱には耐えられませんな」

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