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白登山

使用したAI Dalle
(...これは絶地だ)
護軍中尉陳平は瞬時に悟った。漢高祖七年の事である。

史記高祖本紀曰
「七年,匈奴攻韓王信馬邑,信因與謀反太原。白土曼丘臣、王黃立故趙將趙利為王以反,高祖自往擊之。會天寒,士卒墮指者什二三,遂至平城。」

また陳丞相世家曰
「其明年,以護軍中尉從攻反者韓王信於代。卒至平城,爲匈奴所圍,七日不得食。」

(我が陛下と大漢の大業も、ここで潰えるのか。陛下も俺も、そんな最期を迎えては悲惨という以上に滑稽以外の何物でもないではないか。さぞかしあの世で項羽や范増の爺などが嘲笑するに違いない。いやそれ以前に、これまで我が大漢の大業に殉じて死んでいった将兵のみならず、項羽にしても陳余にしても俺たちが敵として殺してきた奴らに対しても申し訳が立たぬ)

漢の主力野戦軍の総力...と言ってもいい三十二万は、匈奴の英雄王冒頓単于が指揮する四十万によって平陽にて完全に包囲されてしまったのであった。

平陽の城一つに、三十二万の大軍を養い続ける食糧などある訳がない。

しかも皇帝劉邦の親征であるから、肝心の皇帝自身が袋の鼠という窮状に陥ってしまったのであった。

...

事の発端は、韓王から代王に転じた韓信(かつての大将軍、元楚王の韓信とは別人)の謀反であった。

韓信は、旧韓の王族の出身である。

それが秦によって韓が滅ぼされた後に庶民の身分に落魄していた処を劉邦に見いだされて漢の一将となり、韓王成が項羽に殺された後に劉邦によって韓王に立てられた男である。王とは言え、事実上劉邦子飼いの臣下と言ってもよく、一貫して漢と劉邦に対しては忠実であった。

楚漢戦争において、滎陽落城の際に一時的に項羽に降伏した事はあったものの、後に脱出して漢軍に合流し、再び劉邦によって韓王の地位に戻されており、劉邦の信任も厚い。

漢が関中に最も近い韓の地を直轄地に編入した際も、王号を奪われることもなく転封して代王に封じられている。それも武勇に優れた韓信を匈奴への抑えとするための措置でもあり、韓信にたいする信頼があっての事である。

その匈奴の抑えとして期待していた韓信のまさかの謀反...というだけでなく、よりによって敵国である匈奴に降伏し、要地である晋陽を匈奴に明け渡した上での謀反である。

長安の朝廷が震撼した。

...

この度の北伐に際して、漢軍の総参謀長とも言うべき留侯張子房は帯同していない。

元々の病弱...というだけではなく、劉邦としては韓の出身である子房に対して気を使ったのであろう。ただでさえ、子房の故国である韓を事実上消滅させる形で、郡県制を布く漢の直轄地に編入している。

それ自体は政治的に必要な措置であると、子房も感情はどうあれ理性の面からは理解していた筈である。今は妥協の産物として一部封建制を容認してはいるが、漢帝国の理想はあくまでも中央集権による郡県制だ。関中に最も近い韓の地に、封建制を長く認め続ける訳にはいかないことは、政治的には自明の事であった。

しかし、その上更に元韓王である韓信の討伐に、子房を帯同させるのはさすがに酷な話である。

...

一方、韓信の謀反に際して、劉邦と漢の朝廷にも落ち度がなかった訳ではない。そもそも、韓信は主体的に漢に背く気などなかったのである。

韓信は自身が優れた武将であるだけに、眼前の匈奴と英雄王冒頓単于が敵としては項羽をも上回る過去最強の敵であることを十分に理解していた。そして彼我の軍事力の優劣を冷徹に判断した時に、まともに軍事的にぶつかっては勝ち目がないことを悟ったらしい。
(この後、漢帝国が総力を挙げて負けるのだから、藩国の一つに過ぎない代単独で勝てる筈がない)

そして韓信が思いついた策は、匈奴と軍事的に対立するのではなく外交関係を結び、平和裏に友好を結ぼうとすることであった。

発想自体は決して間違っていない。

その後の歴史と漢帝国の対応を見ても、結果論としてはそれは現実的に妥当という外はない。軍事的に勝てない相手に対して、例え屈辱的な和平になったとしても負けて滅ぶよりはるかにマシな選択である。問題は、韓信が劉邦と漢の朝廷に諮ることなく、独断でそれをやってしまったことなのであった。

劉邦と長安の朝廷は、その韓信の動きを匈奴への内通ではないかと疑ったのである。
(独断でやっていることだから、それは不当な疑いとも言い切れない。独断で敵国である匈奴と外交関係を持とうとした点に関しては、韓信に非がある)

長安の朝廷からの詰問を受けて、韓信は恐怖にかられたらしい。

よく「劉邦の猜疑心」などと後世言われるのだが、実はこの時点で粛清された功臣はいないのである。楚王韓信は王から侯に格下げされたが、この時点では殺されてはいない。

後世から客観的に見て、この時点で韓信が恐怖に駆られたというのは実は奇妙ですらある。

ただ韓信の主観においては、かつて楚漢戦争の際にやむを得ないとはいえ一度漢に背いて項羽に降伏した事が心理的な罪悪感と重圧になっていたらしい。

後に韓信は、漢の討伐軍の将柴武(陳武とも伝わる)による降伏勧告に対してこう言っている。
「陛下擢仆起閭巷,南面稱孤,此仆之幸也。滎陽之事,仆不能死,囚於項籍,此一罪也。及寇攻馬邑,仆不能堅守,以城降之,此二罪也。今反為寇將兵,與將軍爭一旦之命,此三罪也。夫種、蠡無一罪,身死亡;今仆有三罪於陛下,而欲求活於世,此伍子胥所以僨於吳也。今仆亡匿山谷閒,旦暮乞貸蠻夷,仆之思歸,如痿人不忘起,盲者不忘視也,勢不可耳。」

...

劉邦という男は、基本的には臣下の諫言や進言をよく聞く男なのだが、人間である以上は誤りも犯す...というかその誤りを犯すことが結構多い男で、この時はその欠点の方が露骨に出た。

劉敬という男が匈奴軍の戦略と戦術について、鋭くその真意を見抜いた報告を上げてきたにもかかわらず、それを一蹴したばかりか牢獄に放り込み、偽って後退する匈奴軍を追撃してしまったのであった。

史記劉敬伝曰
「上使劉敬復往使匈奴,還報曰「兩國相擊,此宜夸矜見所長。今臣往,徒見羸瘠老弱,此必欲見短,伏奇兵以爭利。愚以為匈奴不可擊也。」是時漢兵已踰句注,二十餘萬兵已業行。上怒,罵劉敬曰:「齊虜!以口舌得官,今乃妄言沮吾軍。」械系敬廣武。」

せっかく優れた外交官が鋭い分析を上げてきても、肝心の劉邦が匈奴を侮り、判断を誤ってしまってはどうにもならぬ。

護軍中尉として事実上、漢軍の総参謀長として従軍している陳平は、劉邦の強気に引き摺られつつも無策であった訳ではない。しかし、この場合は陳平の慎重さが却って漢の致命傷となってしまった。

陳平は、後退する匈奴軍を追撃しつつ、こう考えたのである。
(確かに劉敬の危惧は一理ある...今、匈奴軍は後退しているが、これが我が軍を誘い込む擬態である可能性もある...ならば、ここは追撃するにしても各軍を集結させ、漢の全戦力を以て進むべきだ。一度全軍を平陽に集結させ三十二万の大軍の数の利を以て進み、小細工を寄せ付けぬ戦をすべきだ)

戦術としては極めてリスクの低い正攻法のように見えるが、この時の冒頓単于の戦術眼は陳平の更に上を行った。

平陽に漢の全軍が集結する動きに合わせて、匈奴軍の最大の強みである騎兵の機動力を生かし、更に漢軍を上回る四十万という大軍を動員、集結する漢軍とは対照的に全軍の陣形を扇状に展開、平陽を完全に包囲してしまったのであった。

各方面に広く展開していた漢軍三十二万の力を一点を集結させようとした陳平の裏をかいたのである。そして四十万という数の力と騎兵を主体とする匈奴軍の編成、冒頓単于の卓越した統率力がその壮大な戦術を可能にした。

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