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蒯徹其三

使用したAI Dalle
この長く苦しい滎陽の戦いを通じて、陳平は漢軍の総参謀長である張子房とほぼ一心同体に近い意思疎通が出来つつある...と感じていた。

劉邦が滎陽を脱出した後の守城を担当する総司令官の人選に、陳平が立ち入ろうとしない理由を子房は瞬時に察したらしい。

そして陳平もまた、戦略の枠組みを立案した子房が、陳平と同様にその人選に関わるまいとしている理由をほぼ完ぺきに理解することが出来ていた。

...甬道を破壊され補給線を絶たれた滎陽に残る司令官には、死を覚悟してもらわねばならない。

勿論、劉邦も、そして子房も陳平も滎陽を見殺しにする意志はなく、関中で兵力の増強を図り、直ちに中原の戦線に引き返すつもりである。

しかし、その間滎陽が項羽率いる楚軍二十万に対して持ちこたえる保証はない。

そして、その苦境にあっても滎陽の漢軍は降伏開城など論外である。特にその司令官は、例え城が落ちようとも死を以て漢と劉邦への忠誠心を天下に示してもらう必要がある。

それほどの重任の人選は、いくら漢軍の全戦略を担う張子房であっても出来ない。まして新参の陳平では猶更である。

事実上、この滎陽で死んでくれという命令なのだ。

その人選が出来るものは漢王劉邦以外にない。

そして、人材の適材適所を見抜く...という一点に限っては、子房と陳平の頭脳を以てさえ劉邦の眼力には及ばないのである。

そして例え、意見上申という形であっても子房と陳平が「そこ」に関わってしまうと、その後確実に戦術レベルを担う前線の諸将と軋轢が生じよう。

漢軍の諸将は、それぞれに自負心が強く、かつ諸将間の絆、友情もそれなりに強い。

例え直接の命を下したのが漢王劉邦であっても、子房なり陳平なりの進言によって...等と思われては、後々まで「滎陽であいつが死んだのは、子房殿と陳平のやつのせいだ」という類の「しこり」が残ってしまうだろう。

そうなっては後々まで、子房にしても陳平にしても諸将への作戦指導など出来なくなるのである。

二人の稀代の謀臣は、そこまで見通していた。

...

しかし、戦略レベルでの大筋はそれで行くとしても、実はこの時点の漢軍には致命的なまでの戦術的な難題が残っていた。

滎陽は現時点、項羽直卒の楚軍二十万に包囲されているのである。

劉邦と半数の兵力約二万が脱出する...と言ってしまえば一言だが、その難易度はほとんど不可能...というか奇跡に近いであろう。

その滎陽から脱出する...しかも漢王劉邦自身が...など、それは最早戦術というよりも奇術、魔術の類に近い。

しかし、陳平としてはその奇術、魔術をこの滎陽で演じて見せるしかないと腹を括っていた。

そして、その奇術、魔術を捻り出す仕事は、子房の任ではなく陳平の仕事になることも十二分に理解していたのである。

「...やれやれ、私が望むのは子房殿も御存じのように、天下を統一した後に我が漢の宰相になり、天下の政治を行う事なのですがね...どの兵法書にも書き残されていないような詭道、邪道をまたも捻り出す以外になさそうですな」

「陳平殿が漢の宰相の地位に就く為には、まず今この場を切り抜けねば、只の夢で終わりましょうな。陳平殿ならば、何とかなされるのではありませんかな ?」

子房も、苦笑した様であった。

この滎陽の戦いを通じて、二人の謀臣の間には一種の役割分担のようなものが出来つつあった。

戦略上の構想力という点において、その緻密さ、スケール、共に陳平は子房には遠く及ばない。やや不本意ながら、陳平としてはそれは認めざるを得なかった。

しかし、この場合のような戦術レベルでの奇策を立案し、一人一人の人間心理をその奥底まで見通して、策を施す点においては、陳平は子房よりも勝っている。

...

陳平は、どう考えても天下に対して大それた野心を持っているであろう蒯徹という男が、劉邦に直接仕えようとせず、現時点では漢の一臣下に過ぎぬ韓信に仕えた理由と心理をほぼ洞察しきっていた。

天下を統一するという大業に参画したいのであれば、どう考えても劉邦の下に来ればいいのである。劉邦でなければ仕える対象は項羽しかいない。

二人は共に、既に一国の王であり、かつ天下を争っている王なのである。

(...であるのに、奴がその両者にも仕えなかったのは、特に我が大王に直接仕えようとしなかったのは、既に我が漢には人材が揃っているからだ。政治の場には蕭丞相がいて、謀士としては俺と子房殿がいる。奴は自らが王になるのではなく、王たるものを陰から操りたいのだ...その為には、我が大王の左右にいる俺たちが邪魔なのだ。だから韓将軍の下についたのだ。後日、将軍を押し立てて漢に背かせる為に、だ)

更に陳平が思うに、近臣の立場から見ても劉邦とは決して「操りやすい」王ではない。

劉邦という男は、桁外れに大きい度量以外は一見何の能もないように見えて、実は決して馬鹿ではない。調子に乗りやすく失敗も数多くやらかすのだが、物事の大筋、その本質を見抜く眼力は尋常ではなく鋭い。

陳平自身、劉邦という男に対して「御しやすい」等と思ったことは一度もなかった。寧ろ、その異常なまでの眼力、人間観察力には畏怖...恐れすら抱いている。

それらがわかるだけに、より一層陳平は腹立たしいのである。

蒯徹という男の小賢しさが。

陳平ら側近に既に人材が揃っているだけではなく、劉邦という男が決して「側近が思い通りに御しやすい」王ではないことも、蒯徹ほどの男ならば先刻承知であろう。

更に、その観点から言えば項羽もまた御し難いという点においては、劉邦以上に御し難い。

范増が去った今、項羽の周辺には人材がいないが范増一人さえ容れる度量のない項羽を、蒯徹が操る事など出来ようはずがない。

そして、こう思っているに違いない。

韓信ならば、操れる、御しやすいと。

...

陳平は、己こそ天下第一の策士と自負し、かつ将来来るべき漢帝国の宰相たらんとする野心を抱いてはいるが、その己をはるかに凌駕する、張子房という戦略の天才、蕭何という稀代の名宰相を前にして、彼らに対して嫉妬を抱いたり、彼らを陥れて失脚させようなどと考えたことは微塵もない。

特に、陳平が何れ漢の宰相たらんと欲するならば丞相蕭何は「敵」とすら言えなくもないが、陳平は蕭何に対しては全面的にその識見と手腕に敬意を抱いており、何れ天下が定まった暁には政治や法について様々な教えを請いたいとさえ思っている。

謀略家、策士としては史上類を見ない程の達人として後世に名を残した陳平であるが、彼は生涯、その陰謀の才を己の立身や私利私欲の為に使ったことは一度もなかった。

この種の「陰謀家」にしては陳平という男が後世、驚くほど暗さや陰湿さを以て語られてこなかったというのは一つ、そういう点があったであろう。

陳平としては、かつて子房に語ったように、子房や陳平自身と同等以上の才を持つ者ならば、蒯徹であろうと誰であろうと喜んで共に天下の大事を図る同志として迎え入れるつもりである。

己自身よりも優れた才幹の持ち主が漢の陣営に現れて、為に陳平自身が漢の宰相の地位に就けなかったとしても、それを恨む意志など毛頭ない。

己よりも漢の宰相の地位に相応しい者がいるならば、陳平の才がその者に及ばなかったというだけの事である。

陳平という男が所詮そこまでの男だったというだけの事であろう。

陳平には自然、そういう覚悟のようなものは備わっている。

だからこそ、余計に蒯徹の小賢しさ、器量の狭さに腹が立つ訳であった。

陳平はまだ一度も蒯徹という男に会ってさえいないが、その為人と器量は概ね推し量っていた。

...

ただ、今の陳平も、劉邦も張子房も、そして漢という国そのものがそれ処ではない。

二十万の楚軍が囲む滎陽から、劉邦と、そして陳平自身と子房を含む漢軍諸将の大半と、二万の将兵を脱出させねばならなかった。

楚軍の帷幕から范増を失脚させ、死に追いやった離間の策に続き、史上有名な陳平の策略として後世に残る滎陽の脱出劇である。

本稿ではその詳細について文字を費やさないが(後日、「鬼謀」において記述するだろう)、二千人の婦女子を囮と目くらましに使い、更に劉邦の身代わりとなった紀信を犠牲にしての奇策であった。

脱出の後日、紀信が項羽によって焼き殺されたことを知った劉邦は涙を流して取り乱した。

「項羽の野郎、紀信を焼き殺しやがったのか」

殺されるのは仕方がない。例え項羽が紀信の忠烈を称賛して降伏帰順を勧めても、劉邦への忠誠一途な紀信が聞く筈がない。

紀信自身も、劉邦も、身代わりの策を練った陳平自身もそれは覚悟の上であった。

しかし、斬首で即死させるならまだしも、薪の上に張り付けて焼き殺すとは。

「...大王、お嘆きはさることながら、今は一刻の猶予もございませぬ。丞相が数万の兵を増強してくれたのです。直ちに函谷関の東に取って返し、滎陽を救わねばなりませぬ」

張子房が冷静に指摘した。

誠にその通りで、滎陽には、総司令官として決死の覚悟を以てその任に当たった御史大夫周苛、更に韓王韓信、樅公、旧西魏王魏豹が二万の将兵と共に必死の防戦を続けているのである。
(但し魏豹は、この時既に周苛と樅公によって殺害されていた。二人は決死の覚悟を要するこの守城戦において一度漢を裏切ったことがある魏豹は信頼できぬと考えたらしい。尚、その一件が後年、韓王韓信の心理と選択に影響を与えた可能性もある)

彼らを見殺しにしては、漢も劉邦も天下の信を失ってしまう。

現時点、あらゆる軍事的な意味において楚に劣る漢であったが唯一、漢が楚に勝る、劉邦が項羽に勝る要素があるとしたら、大義名分と人心...民衆の支持という一点にしかない。

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