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徳川初姫

使用したAI Dalle
徳川秀忠は、大名対策として何人もの一族の子女を養女にしましたが、実子(つまり=正室お江の方の子)としても4人の娘がいました。

長女は有名な千姫、勝姫、珠姫も郷土史レベルでは有名な人です...が、一番影の薄い初姫。

姉妹三人は、ともかく結婚生活は円満だったらしいのに比して、この人は不幸な結婚生活を送り、しかも若死にしています。

夫は京極忠高...そう、これだけでピンとくる人にはご承知の如く、お江の方の姉常高院の嫁ぎ先です。

ただ、いくら秀忠が恐妻家とは言え、妻の縁故だけで実子を嫁がせるとは思えません。秀忠という人は政治家としてはそういう点、極めて冷徹な判断が出来る人でした。
(本多正純追放劇などを見ても、この人の政治家としての冷徹さはかなりのもので、私情で判断を狂わせない)

京極家の立ち位置が、西の毛利家の抑えとして戦略上きわめて重要な存在だったこと、外様大名の中でも徳川家への忠誠心と貢献度において信頼できる存在だった点が第一と思われます。

現代、テンプレのように「幕府は外様大名を警戒し、事あらば取り潰しを狙っていた」などと言われますが、全く歴史的事実に反しています。

幕府は一律に外様大名を警戒し敵視していた訳ではありません。

主に警戒対象だったのは関が原で敵対した薩摩島津家と長州毛利家であり、徳川家の天下取りに際して貢献した外様大名家に対しては、一定の信頼を持っていました。

その代表的な存在は、最上家、伊達家(意外に思われるかもしれぬが徳川家は伊達政宗に対してはかなりの信頼を寄せていた。幕府公式記録の御実記は政宗を大絶賛し、最大級の言葉を連ねて彼の器量と、徳川三代への忠誠と貢献度を評価している。ちなみに現代でも徳川家は伊達家に対しては別格扱いの礼遇)、藤堂家、京極家、細川家などです。

この中で、最上家は秀忠の代にお家騒動を起こし山形領を没収されますが(改易はされていない)、幕府は最上家山形領を嬉々として没収した訳ではありません。秀忠も幕閣も最後まで最上家存続を意図していたことが細川忠興書簡などの一次史料からはっきりわかっています。
(その細川家もこの後、二度のお家存続の危機を迎えるが二度とも幕府からは本領安堵されている。細川家が配置された熊本は薩摩島津家を抑える為の最前線であり、幕府の細川家への信頼の高さは歴然)

最上家は義光の代から徳川家に忠誠を尽くし(何しろ秀吉生前からそうだった。織田政権時代から両家には交流があった)、義光の子家親に至っては幼少時から秀忠とは親交がありました。関が原に連なる一連の戦役では、東北戦線においてほぼ独力で上杉勢を抑え込む大活躍。徳川家としては頼りにこそすれ警戒すべき理由が何もありません。
(更に言えば最上家は足利源氏斯波氏の流れをくむ名門であり、源氏の氏の長者である徳川家としては保護すべき対象でもある)

お家騒動が収拾つかなくなって、仕方なく領地没収に至っただけのことでした。

さて京極家ですが、この家も関ヶ原の一連の戦役の中で大活躍しています。

特に忠高の父、高次(常高院の夫)は大津城に立てこもって一定期間持ちこたえ、この結果西軍最強とも言われる立花宗茂勢をはじめとする約四万を大津に引き付けて足止めさせ、関が原の主力決戦から引き離す...という大功を挙げています。

だからこそ、幕府は京極家を毛利家の東進を防ぎうる若狭・出雲という重要な位置に配置しています。

そして秀忠と幕府としても、実子初姫を嫁がせるに値する家と判断した...のでしょうが、個人レベルとしてはこの結婚は大失敗に終わりました。

家康の娘督姫と結婚した池田輝政が終生妻に気を使い続けた...のとは対照的に、京極忠高という人は豪胆なのか無神経なのか、将軍の娘だからと気を使うでもなく、妻とは最後まで険悪だったようです。

挙句の果てに初姫の臨終に立ち会うこともなく相撲を現物していて、激怒した姫の弟である将軍家光が姫の葬儀から京極家関係者を締め出した史実すら残っています。
(細川忠興忠利往復書簡による)

面白いのは秀忠と家光で、普通そこまで大御所と将軍を怒らせたら京極家のお先真っ暗...という処なのですが、両御所とも私情と政治を完全に切り離す理性は保っていたらしく、京極家の政治的な位置は初姫の死後も全く変わりませんでした。

初姫への悪意はともかく忠高という人は藩主としては有能でしたから、幕府としても将軍としても、私的な怨恨で政治的判断を狂わせることはしなかったようです。

それどころか忠高が世継ぎをもうけぬまま死去した時も、当時こういう場合は普通改易絶家に処される所、京極家代々の忠誠と功績に免じて、養子による存続が認められた位です。
(この当時はまだ、所謂「末期養子の禁」が緩和されていない点に注目すべきで、京極家が特別扱いで優遇されたことがわかる。徳川親藩ですら容赦なく無嗣改易に処されていた時代である。また京極(佐々木)氏は宇多源氏の末裔で、源頼朝挙兵に際して佐々木四兄弟が真っ先に馳せ参じて以来の家柄)

この京極家の例、前述の細川家の例、また最上家の場合も幕府は最後まで調停を尽くして最上家存続の道を模索していたことからも、外様大名に対して幕府が一律に警戒し何かにことよせて取り潰しを狙っていた..等という俗説が如何に誤っているかは明白です

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