中野竹子殉節
しかし皮肉にも、妹優子はその壮絶な敗戦の中を戦い抜き、抜群の武勇の持ち主であった竹子が敵弾に倒れ、優子が姉の介錯を務めた(介錯者については諸説あるが、優子自身の証言によれば介錯は優子)。
後年...特に地元会津では...伝説的なまでに神格化されその忠勇無双を謳われることになる娘子隊であるが、実は当初会津藩は彼女たちの存在を公認してはいなかった。
(当時の常識としては当たり前の反応であって、ことさら会津藩が差別的であったわけではない)
娘子軍という呼称も実は彼女たちの自称である。
しかし忠君愛国の志に燃える隊士たちは、完全自前で隊の組織から武装まで一切を整えて出陣、途中竹子の戦死という悲劇に遇いつつも敵味方入り乱れる乱戦の中を力づくで突破、半ば押し掛けるように鶴ヶ城入城に成功、ついには藩主容保にその存在を認めさせ、以降は籠城隊の一員として会津軍と最後まで行動を共にしたのであった。
当時16歳の優子は軍中は概ね男装していたらしく、城中ではよく白虎隊士と間違われたらしい。
(飯盛山で自刃したのは士中二番隊だけであって、隊そのものが全滅してはいない)
大河ドラマの主人公にもなった為に有名な山本八重は娘子軍の一員ではなかったが、当然彼女たちとも交流はあった。
「会津戊辰戦争」によれば、八重は早くから薙刀では鉄砲に勝てぬという確信を持っており(※八重の最初の夫川﨑尚之助は洋学者であり、先進的な思考を持っていた)、薙刀で戦おうとする中野母娘のグループに入らなかった。籠城戦を共にして初めて八重の真意を知った中野幸子(姉妹の母)は、優子に薙刀から鉄砲への転換を勧めたという。優子もまた、八重が鉄砲を貸してくれたことは記憶していた。
尚、死をも恐れぬ勇猛を以てなる戦士八重であったが、戦時中「絶対に死にたくない」と思っていた状況があって、それは「厠で用を足している最中(※攻城側は絶えず砲弾を撃ち込んでいたので、厠を直撃する可能性があった)」だったと言う。明治四十二年の「婦人世界」に八重談が掲載された。
尚、水島菊子は昭和まで長命し、昭和七年「会津婦女隊従軍の思い出」として全くと同じ事...即ち「常に死は覚悟の上であったが、厠で用を足している時にだけは絶対死にたくなかった」と語っている。
誠に尤もな理屈であって、当時の婦人達が自決に際してきつく着物の膝下を縛ってから自決したのも「婦人としての醜態」を避けたいが為であった。
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