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別離其四

使用したAI Dalle
(...変な奴だ...本当に人間か、血が流れているのかと思うほどえげつない策ばかり立てるかと思えば、妙に人情深い処もある。死ぬ間際になって何を言い残すかと思えば、まずは周勃殿の晩節を心配するとは)

灌嬰は思った。

陳平という男はかつて漢帝国成立直後の論功行賞の際にも、劉邦に恩人の魏無知にも恩賞を与えるように口添えをしたりしている。

史記陳丞相世家曰
於是與平剖符,世世勿絶,爲戸牖侯。平辭曰:「此非臣之功也。」上曰:「吾用先生謀計,戰勝剋敵,非功而何?」平曰:「非魏無知臣安得進?」上曰;「若子可謂不背本矣。」乃復賞魏無知。

...


「...確かに卿の言う通り、俺が何を言い残しても周勃はあの通りの男だ...陛下に強く望まれれば俺の遺言など聞く耳を持たぬかもしれぬ...」

「卿もそう思うだろう。仮に陛下が本当に周勃殿を呼び戻そうとなさり、かつ周勃殿が丞相を引き受けてくれるなら、俺は軍の事に専念できるからありがたい話だが...卿がそこまで心配する程「その形」...つまり、陛下と周勃殿の関係は危ういのか ?」

「...危うい。陛下と、そして周勃と袁盎の間には、こんな話もあったほどだ...」

陳平は、灌嬰が知らぬ朝廷内の内幕について語った。

史記袁盎伝曰
「絳侯為丞相,朝罷趨出,意得甚。上禮之恭,常自送之。袁盎進曰:「陛下以丞相何如人?」上曰:「社稷臣。」盎曰:「絳侯所謂功臣,非社稷臣,社稷臣主在與在,主亡與亡。方呂后時,諸呂用事,擅相王,劉氏不絕如帶。是時絳侯為太尉,主兵柄,弗能正。呂后崩,大臣相與共畔諸呂,太尉主兵,適會其成功,所謂功臣,非社稷臣。丞相如有驕主色。陛下謙讓,臣主失禮,竊為陛下不取也。」後朝,上益莊,丞相益畏。已而絳侯望袁盎曰:「吾與而兄善,今兒廷毀我!」盎遂不謝」

「...そんな事があったのか...俺は知らなかったぞ」

灌嬰は愕然となった。

確かに、周勃は余りにも不用意...というか一つ間違えば「不敬」で首が飛びかねない。

文帝劉恒という若い皇帝が、冷静沈着な性格で、簡単に激情を発するような型の皇帝ではないからいいようなものの、そうだとしても臣下がそこまで皇帝に気を使わせ、かつ自覚がないのでは「危ない」という以外にない。

「...無論、周勃には決して陛下を蔑ろにしよう等という大それた野心も悪心もない...そんな性格も思考もあの男は持っておらぬ...だが、あいつは....致命的なほどに人が好過ぎる、「素直であり過ぎる」「表裏がなさ過ぎる」のだ」

「「丞相になった。嬉しい」「朝廷の第一人者になった。誇らしい」....そう思う事自体は別に悪い事ではないが、あいつは「いい奴」で「善人」だからこそ、その己の立場の危うさを理解できなかったのだ」

「...こういう場合「善人」という人種が始末に負えぬのは、広い視野で己の立ち位置を客観視する冷徹さを欠片も持っておらぬことなのだ。相手が俺や卿ならともかく陛下では「悪気はなかった」などという理屈は通じぬし、自覚がない分却って始末が悪いのだ」

陳平の言葉を聴きつつ、灌嬰はこめかみに鈍い痛みを感じていた。

陳平独特の「善人悪人論」は、今初めて聞くロジックではない。長い付き合いの中で、そういう話は何度も聞かされた...が、何度聞いても、どうにも得体の知れぬ「居心地の悪さ」を覚えずにはいられぬ。

陳平の論理が説く処は、要するに「悪人よりも寧ろ「普通のいい人」という人種こそが、この世の諸々の「悪」を生み出している元凶だ」という結論に帰結するからである。

そして、長い戦乱と動乱の世を生き抜き、更には勝ち抜いてきた灌嬰は、理屈ではなく本能の部分で、陳平の言は事実であり、真実であり、現実であることを察知してもいた。

というか「そう」である「人間という動物の現実」を否応なく見てきた、と言ってもいい。

ただ一方で陳平という男のおかしさは、自ら「天下一の大悪党」と自称し、世の「善人ども」に対する冷ややかな視点を持ちつつも、その「善人ども」の一人であろう周勃に対して、腐れ縁的な友情を抱いてもいる点であった。

そういう妙に人間臭い矛盾があればこそ、灌嬰もまた陳平という男に一定の好意は抱いてもいる。

...

「...しかし、陛下と周勃殿の間にそんな経緯があったならば、陛下が周勃殿を呼び戻したりするか ? 寧ろ、陛下としてはそんな不愉快な経緯があった臣下は、却って隠居して呉れれば幸いではないか」

「...その可能性もなくはない...その場合、話は難しくない...陛下としては卿を飛び越えて張蒼を丞相に据える訳にも行かぬであろうから、卿が丞相に任じられよう。卿としては兵事に専念したいのが本音であろうが...是非もあるまい」

灌嬰としては、それはそれで気が重い事である。

「...俺も周勃殿と同じで、陛下への態度はともかく、政治は出来ぬぞ」

「陛下もそれはわかっておられよう...だから、卿は慣れぬ政治に頭を悩ませなくても良いように、張蒼や袁盎辺りをうまく使え。陛下としては本来卿を兵事に使いたいのだから、実務を彼らに丸投げしても陛下はそれを咎めたりはなさらぬ」

「...陛下に対しては先刻俺が言ったように、陛下の俺たち老臣に対する複雑な心理を頭を置いておけば、卿ならば致命的な過誤は生じまい...よいか、陛下が余程道理から外れた行いでもせぬ限りは、決して表立って陛下の御意に異を唱えようとするな...そうせねばならぬ必要が生じた場合でも、なるべく誰か他の者を身代わりに立てて、卿が表に立つな。卿が表立って陛下と争うような事態は、いかなる手段を用いてでも避けよ...」

陳平の見る処、政治は出来ぬとは言いつつ実は灌嬰の方が、周勃よりは遥かに自分に近い...つまり「悪党」側の人間だと見ている。つまり、人間という生き物の陰影を理解する力があると考えていた。

灌嬰もまた庶民の出ではあるが、農民でもなければ職人でもない、商人の出である。人間という動物と、その動物どもが織り成す「人の世」という「現実」に対する冷徹な観察力...という素質は出自と経歴からして持っている。

その「悪党」としての素質は、呂氏討滅クーデターの際にも存分に発揮された。

あの時、灌嬰が大軍を率いて最初に反呂氏の為に蜂起した斉軍の討伐に出た...と見せかけて、そのまま斉と密約を交わして反呂氏に転じたことが大きく彼我の軍事力を逆転させる一つの契機になったが、そもそも斉討伐の大将軍を任されたという事は、呂氏は灌嬰を味方と思い込んで疑っていなかった事を意味する。

しかし、後の経緯からわかるように灌嬰は明確に反呂氏の本心を持っていた訳で、にも関わらずその本心を微塵も察知されることなく、その敵である呂氏から軍の指揮権を得て出陣することに成功したのだから、その保身術と本心偽装の巧みさは尋常なものではない。

陳平と周勃に対しては呂氏も一定の警戒を持っていたのだから、灌嬰の狡猾さは際立っている。

「...だが、陛下は本質的には賢明な方だ。余程特殊な事情でもない限り、卿が陛下を諌止せねばならぬような事態は起きまい」

「その特殊な事情が起こりうるとしたら、卿は何だと思う ?」

灌嬰としては、最早死を目前にしている陳平から聞けるだけの事を聞いておかねばならぬ。

「...匈奴だ」

陳平の反応は即答であった。

「...よいか灌嬰よ、よく聞け。そして、これは陛下にも伝えてくれ...匈奴に対して、彼らの侵略に対して当然迎撃はして然るべきだが...決して長城を超えての攻勢を仕掛けてはならぬ...五十年先、百年先はともかく、少なくとも陛下御一代の間には、決して匈奴に対し攻勢に出てはならん」

「...今の我が漢にそこまでの国力も軍事力もない...これは卿個人の軍事的才幹とは別次元の事だ...我が漢はようやく天下を統一し、国内の安定と民力の向上にこそ力を注ぐべき時なのだ。数百年に及ぶ戦乱の時代が終わり、天下の民はようやくも身も心も安んじる事が出来る時代が来たのだ。天下万民の平和と安寧の為にこそ高皇帝も、我らも、あの苦しい乱世を戦い、勝ち抜いてきたのではないか...今、浅はかな軍事的野心によって、その平和を破ってはならぬ」

「...だが、俺がかく言い残しても...いや、だからこそ...かもしれぬが、あの陛下が唯一道を踏み外して国を危うくしそうな状況が起こりうるとすれば、匈奴に対してではないかと恐れている...つまり、匈奴に対して防戦に止まらず、打って出ようとなさるのでないか...とな...とは言え、卿はこの一点は必ず陛下には伝えてくれ...」

ここまで陳平の言葉を聞き続けていた灌嬰には、陳平の「だからこそ」という意味を正しく理解することが出来た。

文帝劉恒が、陳平や周勃、灌嬰ら老臣達を立てる姿勢は見せてはいても、内心では彼ら老臣達に対する微妙な競争意識...を抱いているとすれば、陳平の遺言はかえって逆効果になりかねない、という意味であろう。

しかし、陳平としてはそれも承知の上で「現職の丞相として、高祖劉邦に後事を託された老臣筆頭として、皇帝に言うべき事は言っておかねばならぬ」と、敢えて皇帝に伝えよ、という事であろう。陳平としては、己が間もなく死ぬと覚悟している以上、この期に及んで保身を図る意味はない。

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