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借箸籌策

使用したAI Dalle
「...お見事でした、陳平殿」
張子房は、率直に陳平を称えた。

陳平の毒舌に散々挑発され翻弄され、怒りに震えながら項伯と項荘が帰途に就いた後の事である。そして、二人は「裏切り者共への正義の怒り」を込めて、項羽に報告するであろう...諸将の内、漢に内通している者がいる可能性が大である...と。

それこそ、まさに陳平と子房の思惑通りであった。

「...私の功だけではありませぬ。周将軍(周勃)が期待以上の働きをしてくれました。私が百の弁舌を弄しても成しえぬことを将軍は成してくれたのです...あの無骨一辺倒の周将軍だからこそ、あの場において「とどめ」とも言うべき一撃を加えることが出来たのですから」

陳平としては、別に謙遜している訳ではない。

陳平にはそんな無用、かつ偽善的な虚飾を弄する趣味はない。本心から周勃の功績が大きかったと思っており、思っているままを述べたに過ぎない。

「それはそうでしょうが、それを狙って事前に副使の人選を見極めたのは陳平殿の功です」

「なまじ項伯殿には周将軍との面識があり、その為人を知っていた(劉邦はかつて楚の一将であり、当然漢の幹部たちは楚の幹部たちとは直接の面識がある)...だからこそ、陳平殿の策に嵌らざるをえなかったのですな」

...そう、陳平は「それ」を利用したのである。

周勃には子房や陳平の如く巧みに嘘をつく事などできぬ...そして項伯という男が、そんな周勃という男をなまじ「知っていた」ことが不幸であった。「知っていた」からこそ、項伯と項荘は陳平の策に落ちたのである。

陳平が仕掛けた陥穽が悪辣極まるのは、あの場において、陳平は決して嘘はついていない...と言う点なのである。そして、周勃はその「事実」と「真実」を隠す為に下手な「嘘」をつかざるをえなくなった。

当然、項伯はその「下手な嘘」は見抜く...処までが全て陳平の計算の内にあった。悪辣と言えば、これ以上の悪辣さはない。

「時に子房殿、子房殿の方でも何やら難事に直面していたらしいですな...あの酈生(酈食其)が何かやらかしたとか...」

陳平は話題を変えた。

陳平と周勃が、項伯と項荘を相手に丁々発止を繰り広げていた裏側で、子房は子房で思わぬ難事に直面していたらしいのである。

「左様...酈生です、参りましたよ、さすがに」
子房にしては珍しく、辟易しきった表情を見せた。

「...あの老人は儒者としては型破りの面白い方ですし、決して無能な人ではない...特に弁士としては天下の鬼才と言ってもいい。しかし策士としては、失礼だが決して冷徹に物が見えるお方...ではない。それが此度の事ではよくわかりました。危うく我々の大業が水泡に帰すところでした」

...

この逸話は、史記留侯世家における一つのクライマックスとも言える。


「漢三年,項羽急圍漢王滎陽,漢王恐憂,與酈食其謀橈楚權。食其曰「昔湯伐桀,封其後於杞。武王伐紂,封其後於宋。今秦失德棄義,侵伐諸侯社稷,滅六國之後,使無立錐之地。陛下誠能復立六國後世,畢已受印,此其君臣百姓必皆戴陛下之德,莫不鄉風慕義,願為臣妾。德義已行,陛下南鄉稱霸,楚必斂衽而朝。」漢王曰「善。趣刻印,先生因行佩之矣。」

食其未行,張良從外來謁。漢王方食,曰「子房前!客有為我計橈楚權者。」其以酈生語告,曰「於子房何如?」良曰:「誰為陛下畫此計者?陛下事去矣。」漢王曰「何哉?」張良對曰「臣請藉前箸為大王籌之。」曰:「昔者湯伐桀而封其後於杞者,度能制桀之死命也。今陛下能制項籍之死命乎?」曰「未能也。」「其不可一也。武王伐紂封其後於宋者,度能得紂之頭也。今陛下能得項籍之頭乎?」曰「未能也。」「其不可二也。武王入殷,表商容之閭,釋箕子之拘,封比干之墓。今陛下能封聖人之墓,表賢者之閭,式智者之門乎?」曰「未能也。」「其不可三也。發鉅橋之粟,散鹿臺之錢,以賜貧窮。今陛下能散府庫以賜貧窮乎?」曰「未能也。」「其不可四矣。殷事已畢,偃革為軒,倒置干戈,覆以虎皮,以示天下不復用兵。今陛下能偃武行文,不復用兵乎?」曰:「未能也。」「其不可五矣。休馬華山之陽,示以無所為。今陛下能休馬無所用乎?」曰「未能也。」「其不可六矣。放牛桃林之陰,以示不復輸積。今陛下能放牛不復輸積乎?」曰「未能也。」「其不可七矣。且天下游士離其親戚,棄墳墓,去故舊,從陛下游者,徒欲日夜望咫尺之地。今復六國,立韓、魏、燕、趙、齊、楚之後,天下游士各歸事其主,從其親戚,反其故舊墳墓,陛下與誰取天下乎?其不可八矣。且夫楚唯無彊,六國立者復橈而從之,陛下焉得而臣之?誠用客之謀,陛下事去矣。」漢王輟食吐哺,罵曰「豎儒,幾敗而公事!」令趣銷印。」

この一連の記述において注目すべきは、元々は祖国韓の復興を志して立った筈の張子房という男が、この時点においては中央集権主義者に転向していた...という点である。

実はその子房の思想的転向...という点に注目した歴史家...が筆者が知る限りいないのが不思議なのだが、この一連の子房の言葉を素直に読めばそう解釈するしかないのである。

張子房という男は最初、決して「劉邦の為」に戦っていたのではない。韓の再興の為に、劉邦という稀代の大器を利用していたに過ぎない。

韓の復興とは即ち、秦による統一前の封建制を是認するという意味に他ならない。

しかし、漢王朝が目指すものは決して封建制の復活ではない。確かに一時的な妥協策として、一部東方諸国に対しては封建制の存続を今は認めざるを得ないが、漢王朝が目指す理想はあくまでも封建制の廃止と、郡県制による中央集権体制である。

そして子房はここでは、韓の復興など俺の知った事ではない...と言わんばかりに、旧六国の復興(つまり封建制の復活である)を進言した酈生の献策を一刀両断に切り捨てているのだ。
(この時点で韓は韓王韓信の下、漢の属国とは言え「復興」はしている)

張子房という男の凄みは、ここにある。「君子は豹変する」という言葉があるが、張子房はこの時点で既に封建制の時代が過ぎ去ったことを冷徹に見切っている。

そして漢の下に多くの人材が集まる理由についても、身も蓋もないほど冷徹に看破している。

彼らが劉邦の下で項羽と戦うのは、別に劉邦が「聖人君子」かつ「正義の味方」であり、項羽が「悪の権化」だから等ではない。人間とは基本的に正邪善悪などで動かない。利害損得勘定で動くのである。
(その計算が実際に利益という結果に結びつくか否かは、完全に別の問題である)

人間という生き物が表面上善悪等という観念の為に動くように見えるとしても、それは多くの場合において「そうした方が利益である(この場合の利益とは金銭的利益のみを指すのではない。あらゆる意味での社会的利益の事である)」からに過ぎない。

張子房はここで、はっきりそう言っている。臣下たちが劉邦についているのは欲得の為だと。

陳平も同じことを言っている。
「今大王慢而少禮,士廉節者不來、然大王能饒人以爵邑,士之頑鈍嗜利無恥者亦多歸漢。」

この二人の稀代の謀臣が歴史に不朽の名声を残したのは、この冷徹な現実認識力の故であった。

二人は人間という動物に、現実以上の何の妄想も幻想も抱いていない。人間という動物のあるがままの現実を直視できる男たちであったが故に、劉邦を擁して天下統一という大業を成しえたのである。

言い換えると、劉邦とはより相対的多数の人間に利益をもたらす存在だと思われていたが故に、民にとってより利益をもたらす政治....つまり「善政」を布く存在と思われていたが故に、その麾下に無数の人材が集まり、漢の民もその政治体制を支持し、反乱も起こさず徴兵にも納税にも応じて、漢という国のために戦ったのであった。

善政とは、決して「正義」等といういかがわしい観念を行う事ではない。相対的多数の民衆に「利益」をもたらす政治を指す。

民にとって、より安く済む税制が施かれるならばそれが善政であり、より軽くて済む労役制度が施かれるならばそれが善政であり、なるべく自由に商売が出来ればそれが善政であり、より公正な裁判が行われるならばそれが善政であり、その上で国内治安と対外安全保障を維持してくれる外交と軍隊が機能するならば、それが善政なのだ。

それらは悉く、国家構成人員の絶対多数を占める「庶民」にとっての利益であるからだ。

「正義」などといういかがわしい「観念」など、そこに入り込む余地はない。

権力者が善政を施かなくてはならぬ理由も断じて「正義」等の為ではない。善政を施き民衆の支持を受ける事こそが権力者にとって最大の「利益」に結び付くからである。

悪政を施き、民を苦しめ、一時の快楽に耽った処でそれは最終的には決して権力者自身の為にならぬ。中国の民は、そんな権力者に対して決して大人しく従いはしないからだ。現に、秦帝国はそうした民衆の反乱に直面してあっけなく滅びたのである。

...

二人の参謀がそんな会話を交わしている処に、思わぬ珍客が訪れた。子房の従卒が入ってきてこう告げたのである。
「成信侯(張良)、陳中尉...酈生がお二人にお目にかかりたいと、来訪されました...」

「何だと ?」
陳平は思わず絶句した...よりによって、その問題の酈食其の来訪とは...前後の状況からして、どう考えても穏当な用件ではあるまいが。

そして従卒を押しのけるようにして、その酈食其が子房と陳平の返事も待たずにずかずかと入ってきた。

儒者...という癖に破天荒な老人で、その弁舌の才も確かであり、子房も陳平も決してこの老人を嫌ってはいない...という以上に、面白い爺だ...と相応の敬意を払ってもいる。

儒教嫌いで有名な劉邦の下で重臣を務めている位だから、型通りの儒者などであろう筈がない。儒者というより、かつて春秋戦国期に天下を闊歩した縦横家のような気概の持ち主で、故郷では「狂生」などと呼ばれて狂人扱いされていたような男だ。

しかし、今その「面白い爺」は怒髪天を衝く勢いで子房に食って掛かってきた。
「子房 !!...貴様、儂に何の恨みがあるのだ。儂が、大王と我が漢が大業を成す為に精魂を込めて説いた策を台無しにしてくれおったそうではないか!!」

張子房は、この男には極めて珍しい事であったが...勘弁してくれ...とでも言わんばかりの表情を浮かべている。

「...酈生...私は卿に対して恨みも何もありませぬよ...私は卿の策の誤りを大王に指摘したに過ぎません。卿に対する私怨などであろう筈がない」

「誤りだと !? 儂の策の何が誤りだ ! 言ってみろ、孺子 !」
この爺にかかっては、天才策士張子房も孺子呼ばわりである。

張子房の口調が、ここで一変した。...傍らにいた陳平は、この女のように繊細な容貌の男から立ち上った殺気すら感じていた。
「酈生、卿はもはや過去の遺物、春秋戦国期の亡霊でしかない六国の王族を立てようとしたのだぞ。卿は漢の国策を何も理解していないではないか !」

「何だと...!」

「蕭丞相(蕭何)や周大夫(御史大夫周苛)が、魏を討伐した後に新王を立てることもなく、郡県制を施き、太守を任命したのは何の為だと思っているのだ。卿はそれを見て、何も感じなかったのか」

「最早漢が目指すものは、かつての周代のような封建制ではないのだ ! その点において、我が漢が目指すものはかつての秦と同じ郡県制だ、何故それがわからぬ !」

酈食其も黙って言われたままではいない。この老人は、そんな殊勝な性格などしていない。

「...子房、貴様...自分が何を言っているのかわかっているのか ? 卿とて祖国の韓を復興させる為に、秦との戦いに立ち上がったのではなかったか。今、卿が言っていることは自己否定だぞ」

「確かに韓は儂の策を用いずとも既に形としては復興している...事実上我が漢の属国だがな。だが、我が漢が今後、秦と同じ郡県制を推し進めるという事であれば、例え今は漢に忠実で、大王も韓の存在をお認めになっているとはいえ、それがいつまで続くかわからぬという事だぞ。卿はそれを承知の上で、物を言っているのか ?」

ここで酈食其が言っていることは、かつての陳平が張子房に対して抱いた疑念と同じである。そして、今の陳平は子房の覚悟..というか、その時代を見通す目が、時代の現実を正しく把握していることを理解している。

「...私は勿論それを理解した上で、卿の策を叩き潰したのだ。我が大王が項羽を殺し、楚を滅ぼし、天下を統一し万民を安んじる為に、「そう」することが必要だと確信しているからだ」

「仮に六国の王を立てて、それぞれを独立させてみろ。今、我が漢に従っている諸国の士はそれぞれの故国に帰ってしまうだけだ。そして、その諸国が我が漢に従う理由がどこにあるか。天下は再びかつての戦国乱世に逆戻りするだけではないか。そんな有様で我が漢はどうやって大業を成すのだ。卿の策は全て机上の空論でさえない。愚かな妄想に過ぎぬ」

「卿は儒者としては面白い男だが、あのような現実離れした愚策を本気で信じている処が所詮は儒者だ。卿ら儒者は古代の西周初期を理想として、その古代に現実を引き戻そうと画策するが、そんな愚行は現実的には不可能なのだと、なぜわからぬ」

張子房にしては珍しく激した言葉に、酈食其も怒りをあらわにした
「古代の聖賢の道に立ち返ってこそ、万民の平和も安らかな暮らしもあるのではないか ! 貴様は人の道も弁えぬのか !?」

「儒者の言う人の道など私の知った事か ! 私は策士だ。私が今考えることは如何なる非道外道な手段を用いてでも項羽を殺し、我が大王が如何にして天下を平定するかという戦の為の策だ。そして、その戦を制する事こそが、結果として万民に平和と安寧をもたらすのだ。人の道など、この乱世では犬の餌にすらなるものか」

「我が漢の将士が我が大王に付き従うのは、人の道などというたわけた戯言の為ではない。彼らは皆、大王に付き従う事で、少しでも多くの恩賞を得たいのだ。それ以上でも以下でもない。彼らを動かすものは只欲望だ、儒者の説く「人の道」とやらで現実に人が動くものか。人を動かすものは欲だ。その欲をどうやって操り、この戦に勝つかを考えるのが、私と陳平殿の仕事だ。卿ら人の世の現実も知らぬ儒者風情の出る幕ではない !」

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