「...大哥の首だと !?」
漢王劉邦の大声が響き渡る....密談に向かない人だ、と陳平は仕えたばかりの主君について思った。
「陳余の野郎、人の足元を見やがって、何てことを要求しやがる !!」
...漢二年、紀元前二〇五年、前年の西楚覇王項羽による論功行賞で巴蜀漢中の僻地に追いやられていた漢王劉邦が遂に決起した。
丞相蕭何の卓越した内政手腕の下で急速に兵站を整えた漢軍三万は、更に総司令官に韓信という不世出の用兵家を得て、想像を絶する奇策を以て関中...即ち旧秦の地に進出、たちまちの内に項羽が擁立した三人の王を撃破して、旧秦王国の旧領をほぼ手中に収めたのである。
約四百年後、やはり巴蜀と漢中から関中大地に進出しようとした季漢(蜀漢)の丞相諸葛孔明が四度も出兵しながら何の成果も得られなかったことを思えば、条件は違えど、この時韓信が成した軍事的成功の偉大さと難易度の高さがわかろうというものである。
かつての戦国七雄の内、最強とされた秦の旧領ほぼ全域を手中にした漢は、それだけで西楚覇王項羽に匹敵...あるいは凌ぐ版図を手中にしたのであった。
そして丞相蕭何、大将軍韓信という内政と軍事両面の偉才を擁する漢軍に、この時更に二人の英傑が加わった。
即ち、中国史上最高の参謀として二千二百年以上後まで名声を謳われることになる元韓の貴族である張子房(張良)、同じく智謀と鬼謀の持ち主として、子房に次ぐ名声を持つに至る陳平の両参謀である。
そして、子房の献策を受けて劉邦がとった戦略は、劉邦に項羽に敵対の意志がないとする偽りの書状を以て項羽を騙し、その目を斉に引き付けておいて、その間隙をついて各地の諸王に呼び掛けて反項羽同盟軍を結成することであった。
特に中原より北の諸王は概ね、反項羽、反楚感情を持っており、漢の同盟軍として期待されていた。
また恒山王(後世、常山と改称される。文帝劉恒の諱を避けた為)張耳は、反楚、反項羽ではないにしろ、遊侠時代の劉邦が兄事したこともある兄貴分として私的な交流もある。
...ところが、である。
その張耳は、かつて刎頸の交わりを結んでいた陳余と仲たがいを起こしており、更に陳余は項羽の論功行賞で王になれなかったことを深く恨んでいた。
恨んでいただけではなく、遂には隣国の代王趙歇と語らい、更には先んじて反項羽の狼煙を上げていた斉と同盟して張耳を攻め、没落させてしまったのである。
...ここで張耳が、恒山王として立ててくれた恩がある項羽ではなく、若い頃に交流があった劉邦を頼ったことが、その後の歴史を大きく動かした。
この時点の劉邦と漢軍としては、話がややこしくなってしまったのである。
...この場合、反項羽という一点においては陳余は確実に漢と利害が一致する。ところが、陳余にとっては最早仇敵と化した張耳もまた劉邦を頼って亡命しているのだ。
そして陳余が漢と同盟するにあたって出した条件が、「張耳を殺してその首を差し出せ」...というものだったのである。
で、冒頭の劉邦の怒号に至る次第...であった。
...
「陳余の野郎....この俺様と張大哥が義兄弟の契りを結んだ仲であることを知らぬわけでもあるめえが、この俺に仁義に背けってのか、畜生めが」
...なるほど、聞きしに勝る口の悪さだな、と陳平は思った。貴族上がりで基本的に礼節は正しい項羽とはえらい違いである。
しかし、その項羽を見限って劉邦に仕えることを選択した己の目は間違っていないと、陳平は確信している。
旧韓の貴族である張子房は、この主君の柄の悪さは平気なのだろうか....と陳平はちらと思ったが、元々、沛公時代からの劉邦と付き合いが長い子房は、平然としたものであった。
「...大王、ここで陳余を罵っても仕方がございませぬ。いかがなさいますか」
子房は氷のような冷ややかさを以て、漢王の激情に火を注ぐようなことを言ってのけた。
この時点において張耳は領土も軍隊も持たぬ「只の人」である一方、陳余は事実上代と趙二国の主権者である。
陳余の要求を拒否するという選択肢と余裕は現在の漢軍にはない。
それをよくわかっての言であった。
(...俺もまあそれなりに悪党ではあるが、子房殿もなかなかえげつないお人だ)
陳平は密かに思った。
「いかがするかだと ! 子房、この俺に義兄殺しをやれってのか !? お前だって元は遊侠の世界に生きていた男だろう。だから項伯殿を匿ったりもしたんだろうが !」
子房は漢王の激情には、1mgの感銘も覚えないようであった。
「とは仰いますが、では陳余と趙と代二国の戦力を敵に回す御所存ですか ? 項羽という化け物と戦うには、兵力で圧倒するしかないのです。同数の兵力などではとてもあの化け物は殺せません」
「んなこたあわかってる ! その上で何か策はねえかと聞いてるんだ !」
「...左様ですな....ここは陳平殿のお知恵をお借りしては ?」
子房は済ました顔で、難題を全て陳平に丸投げしてきた。
(こ、この野郎....)
陳平は、思わずこの痩せた旧韓の貴族の顔をまじまじと凝視してしまった。
陳平は己こそ天下一の謀略家と自負しているが、この張子房という男の頭の仕組みはどうなっているのか、陳平ですら測りかねる。
この俺を試すつもりか...陳平の勝気に火が付いた。
「....大王、恒山王との義兄弟の義を貫きたいとの仰せ、誠に御尤もでございます。と同時に子房殿仰せの如く、陳余の要求を拒絶する訳にも参りませぬ。そこで、一計を案じました」
ひとたび回転すると、陳平の頭脳はひたすら旋回し続けるようにできている
「死刑囚の中から、恒山王に似た囚人を探し出してその首を斬り、陳余に届けるのです。どうせ死人の首などは腐敗して面変わりしてしまうもの...多少の差異などいくらでも誤魔化せましょう」
劉邦の顔色がたちまち明るくなった。
「陳平よくぞ申した ! それは妙案だな....早速、手配してくれ !」
「...新参の臣が采配してもよろしいのですか ?」
「勿論だ、誰かが文句をつけるようなら俺に言え。そいつには俺から話をつけてやる」
劉邦が一度何か大事を決してそれを臣下に任せる時、臣下の方が驚く位に丸投げ...というか完全に全権を任せてくれるので、陳平のような新参者には、なかなか新鮮な体験であった。
(この人はなるほど確かに欠点だらけの人ではあるが...この一事を以て仕えるに足るお方だ)
陳平はそう思っている。
項羽の下ではこうはいかない。
項羽の下では陳平のような人間は息が詰まって、才能を十分に発揮できないのである。
この人の下でなら、俺も相当自由な絵が描けそうだ....と、そこまで考えてはたと陳平は気づいた。
...張子房、最初から俺を使う気でいやがったな ?
確かにこういう奇策奇計、陰謀は陳平の最も得意とする処だ。
子房自身にも同じような策は思いつくのだろうが、最初から陳平に仕事をさせるつもりでいたのだろう。
...なるほど、漢王だけではなく張子房...俺はあの男とも、共に仕事が出来そうだ
陳平は思ったのだった。