「ルキウス・アントニウスだと!?」
ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌスの怒号が響き渡る。
「...間違いない」
マルクス・ヴィプサニゥス・アグリッパが首肯した。それにしても、普段は常に冷静沈着な若きカエサルが激昂するのもなかなか珍しい事である。
ただ、この21歳の若き主君は腹心の友であるアグリッパと二人だけの時には、比較的感情の諸々が表に出やすいらしい。
紀元前41年の事である。
...
フィリッピの戦いの後、カエサル軍団の運用の全てを任されているアグリッパは、軍団兵への恩賞授与の一環として、主に土地の分配に関する諸々の手続きを進めていた。カエサルの措置により、第二次三頭体制が並行して進めていた共和主義者たちの粛清と資産強奪という陰鬱な任務からは解放されたこともある。
元々、処罰者名簿に基づくその大量粛清は一段落するタイミングではあったのである。いずれにせよ、アグリッパとしては精神衛生上きわめて劣悪な任務から解放され、本来の任務である軍政方面に張り切って精励している訳であった。
しかし、この任務もまた最初から困難を極めた。
元々、分配できる土地は限られているのである。特にローマ本国内に関しては、その資源は枯渇しつつあると言っても良い。属州出身の軍団兵ならば出身地に近い属州の土地を支給する手段をとれるのだが、ローマ本国出身の兵にそれをやろうとしても概ね歓迎されない。
軍団兵たちの不満は日に日に拡大し、それは反乱にすら発展しそうな気配を見せていたが、アグリッパはその軍団兵たちの動きに不自然な気配を感じ取っていた。
...何かがおかしい。
軍団兵たちの不満はわからなくもない。アグリッパ自身が低い身分の出身であり、彼らの不満は皮膚感覚で理解できる。
しかし、それがこの短期間に組織的な反乱にまで拡大しそうな状況は何かがおかしい。その背後に何者かの使嗾があってのことではないか。
アグリッパは政治...特に謀略方面は自ら不得手と認めているが、それは彼の気質的な問題であり、彼の頭脳は本来明敏である。更に言えば、主君であり親友であるカエサルに対して何らかの悪意が働く時、カエサルに何らかの危機が迫る時、アグリッパのその動物的なまでに鋭敏な嗅覚が全力稼働するのであった。
事態の不自然さに気付くまでにそう時間はかからなかった。
ただ、その先の情報収集という事になると、アグリッパが軍団を動かすよりもマエケナスの諜報網を活用すべき事項である。マエケナスの協力を仰いだアグリッパは、その諜報網から背後の黒幕に関する決定的な情報を掴んだのであった。
ルキウス・アンニトウス。その年の執政官であり、マルクス・アントニウスの弟である。
そして、彼がこの事態を裏で操っているとすれば其れ即ち、更にその背後にはアントニウス自身がいると見なければならぬ。
「おのれアントニウスの奴が、姑息な真似を !」
有体に言って若きカエサルは、そしてアグリッパとマエケナスも、アントニウスの政治的な能力に関しては全く評価していなかった。しかし、こうなってみると政治的な見識はともかく、陰謀の立案能力と実行力はあると見なければならぬ。
正直甘く見ていたアントニウスの陰謀に足元をすくわれそうなこの状況に、カエサルが怒りをぶちまけたのも無理はない。してやられた...という表現がこの場合はまさに当たっている。
しかし、アグリッパとマエケナスは更にカエサルが想像もしなかったもう一つの事実を突き止めていた。
「....ルキウスが兄と気脈を通じているのは確かだろうが、今回の一連の動きを裏で主導しているのは、あの兄弟という以前にアントニウス(兄)の妻であるフルヴィアらしいのだ」
「...何だと ?」
これもまた珍しい事であるが、若きカエサルが絶句して二の句を継げなかった。さすがにこの天性の政治家とも言うべき若者にとっても、想像の遥か斜め上を行く事態である。
ローマ史上、女性が権力なり武力なりを行使する主導者になった例はない。国家ローマが外国と戦うに際し、その権力者が女性であった例はあるが、自国において女性がその主導者になったことはない。
いくら若きカエサルが明敏であっても、神々ならぬ人間の身である以上、その想像力の限界を超えている。
「...バカな、何という愚かな男だ。アントニウスの奴は妻に唆されて私に喧嘩を売る気か」
「...そういうことになる」
アグリッパは若き主君の感情の動きを観察していたが、どうもこの若きカエサルはアントニウスの陰謀以上に、彼が女に動かされている事態が、癇に障るらしかった。
アグリッパの見る処、この若き主君は常に冷徹かつ合理的な思考と行動に徹し、更に必要とあればいくらでも冷酷非情にも、残虐にもなれる人ではあったが、どういう訳か男女関係においては妙に潔癖...というか古風な処があって、その点、野放図と言うしかない女性関係をやりたい放題に広げていた「父」神君カエサルとは全く異なる種類の人間であるらしい。
しかし、神君カエサルという人は女と見れば口説き、手を出し、ベッドに引きずり込んでいたような人(その割に実子に恵まれなかったが)であった割には、ベッドに引きずり込んだ女性達から恨まれるということがクレオパトラを唯一の例外としても基本的にはなかったらしいのに、
その「父」よりはるかに謹厳な性格の割に、この若きカエサルの後継者は何やら女難の相でもあるのか、クレオパトラといい、今回のフルヴィアといい、立て続けに女を敵に回す羽目になっているのはどういうものだろう...と、アグリッパはやや皮肉な事を考えていた。
ローマの長い歴史上、こうも立て続けに女と戦う羽目になっているのは、この若きカエサルが初めてである。
そもそも、フルヴィアは若きカエサルに娘を嫁がせる予定だったのである。
第二次三頭政治が成立した後、カエサルとアントニウスは政略結婚を結ぼうとしていた。カエサルが婚約したのは、アントニウスの連れ子で、フルヴィアと先夫の子であるクローディアだった。
この婚約自体には、アントニウス以上にクローディアの母であるフルヴィアの意向が強かったと言われている。
夫のアントニウスのライバルであるとはいえ、何しろカエサルは現ローマ政界の最高権力者の一人であり、正式にユリウス・カエサル家を継承した今となっては、王政以来の名門貴族の当主であり、その一門の総帥である。
娘を嫁がせる先としては、これ以上ない(加えて絶世の美男でもある)相手と言ってもいい。
しかし、それが全てカエサルを欺く為の罠だったとすると、敵としては恐るべき女と言うしかない。実の娘ですら、打倒カエサルの為の策の一環として利用した訳である。
...
ともあれ、主君に女難の相があろうと何だろうと、カエサル軍団の戦略戦術、軍団の運用全てを任されているアグリッパとしてはこの事態を看過している訳にはいかない。
「...ともかく、これはカエサルに対する明白な敵対行為であり、座視している訳にも許す訳にもいかぬ。カエサルのお許しがあれば私は直ちに忠誠を信頼できる兵力を集め、反逆者共の討伐に当たるが、カエサルの御裁断や如何に ?」
「勿論そうしてくれ。軍団の編成、運用、戦略戦術、兵站、全て君の采配に任せる。我が軍において君の命は全て私の命と同様だ。何事も、君が思う通りにしてくれて良い」
「...御信頼に感謝します、インペラトール」
親友にして主君である若きカエサルの絶対的な信頼は勿論ありがたいが、軍団を指揮するにあたってアグリッパが徹底していることは一つあって、「自分はインペラトールの忠実な代理人であり、決してインペラトールではない」というごく当たり前の事実を軍団の全てに周知徹底させる...という一点である。
どれだけカエサルがアグリッパを信頼しているとしても、この一点だけはアグリッパとしては軍団に対して絶対に死守しなければならない一線であった。
アグリッパに向かって軽率にも「インペラトール」と呼びかけた兵士を厳しく罰した事すらある。
それだけは絶対に徹底しなければならない、とアグリッパは考えている。
「それ」を怠ると、軍団内の不平分子がアグリッパを担ぎ上げてカエサルに反旗を翻す...等という忌まわしい擁立劇が起きかねない。
アグリッパのような「組織における絶対的なNo.2」という存在が一般論としては危険であるという理由もそこにあって、アグリッパとしてはカエサルに対し、間違っても己自身が害をなす存在になり果てる等という悪夢の如き事態は絶対に避けねばならなかった。
カエサルとしては勿論、アグリッパが自然にそういう人間であると確信しているからこそ、彼に兵権の全てを委ねて平然としていられるのであった。