わたしの名前は「ヒノイの子」です。
お父さんとお母さんがつけてくれた名前はありますが、誰もその名で呼んではくれません。
わたしが生まれるよりずっとずっと前。わたしのお父さんとお母さんが生まれるよりも前。
ヒノイとフェンテスの間に戦争がありました。わたしはまだ小さくて、難しいことはよくわかりません。戦争で何があったのか、詳しくは知りません。
でも、ヒノイとは違って、フェンテスの人はとても長生きの人が多いので、今でも戦争のことを覚えている人が多いのです。
親しいお友達や、大切な家族を傷つけられたり、戦場に行ってそのまま戻ってこなかったりして、その時のことを話す時はとても悲しい顔をする人を何人も知っています。
わたしはヒノイで生まれました。
お母さんは生まれつき体が弱く、特に心臓の病気でほとんど病院から出ることは出来ませんでした。
わたしを生む時も命懸けで、それでもわたしに生まれてきて欲しかったのだと、お母さんは寝たきりのベッドから手を伸ばして、わたしの頭を撫でてくれました。
お父さんはお母さんの治療費とわたしを育てるために、いつも遅くまでお仕事をしていました。
わたしが小さい頃はお爺ちゃんとお婆ちゃんにお世話をしてもらっていましたが、二人とも死んでしまった後は家で独りきりでした。
それでも近所の友達の家でよくご飯を一緒に食べさせてもらったり、時にはお泊りさせてもらったりもして、それはもちろん寂しい時もありましたが、わたしは我慢しました。
ヒノイよりも、ずっと医療が進んでいるフェンテスなら、お母さんの体を治せるかもしれないとお父さんが話してくれていたからです。
もし本当にお母さんの病気が治るなら、お父さんとお母さんと一緒に暮らせるようになるなら、わたしはどんなに寂しくても我慢できました。
そして、とうとう必要なお金が貯まり、わたしたちはフェンテスに移り住むことになりました。
友達とお別れするのは寂しかったけれど、お別れの時はお父さんも一緒に近所の皆に挨拶をして回って、ずっと手を握っていてくれたので、泣きそうになるのを我慢して笑顔で「さよなら」を言えました。
フェンテスで手術をして機械の心臓を体に入れたお母さんは、少しだけベッドから起き上がれるようになって、そして生まれて初めてわたしを抱き締めてくれました。
わたしは思わず泣いてしまいました。お母さんも泣いていました。お父さんもわたしとお母さんを抱き締めて泣いていました。
車椅子で病院から出て、わたしたちの家に入ったお母さんは、そこでもまた泣いていました。「自分の家で家族と一緒に暮らすのが夢だった」と言っていました。
お父さんも家にいたままでもできる仕事をするようになって、わたしはお父さんとお母さんと一緒に暮らせるようになりました。
お母さんはあまり激しい運動はできませんが、少しずつ歩いたり、車椅子に座ったままお父さんと一緒にお料理もできるようになりました。
わたしはお母さんに甘えることができるようになりました。初めてお母さんと一緒のベッドで寝ることができた夜は、とても幸せで、とても嬉しくて、とてもとても素敵でした。
――…でも、何もかもが全部、良いことばかりというわけではありませんでした。
最初に困ったのは学校の授業でした。ヒノイではノーマが使える『力』について、たくさんの勉強をします。
わたしはノーマではありませんし、お父さんもお母さんもノーマではありません。
でも、ヒノイではノーマの人がそうではない人よりも多くいて、わたしの友達にも何人もノーマがいました。
ノーマの『力』がノーマではない人を傷つけたりしないように、ヒノイでは学校で『力』の使い方や抑え方をたくさん学びます。
でも、フェンテスでは全然違います。ノーマのことは全然勉強せずに、ロボットや機械のことばかりを勉強します。
フェンテスでは『HAドライヴ』という、とても凄い機械があって、水さえあればエネルギーを幾らでも生み出せる、とても大切なものなのだそうです。
他にも、フェンテスでは人間と同じように扱われるロボットとの付き合い方、ロボットの作り方、機械の構造、ヒノイでは誰も教えてくれなかった難しいことを勉強します。
わたしは少しでも皆について行こうと頑張りましたが、フェンテスの学校ではいつも成績は一番下でした。
先生は(それも人間ではなく、AIというロボットの一種です)、わたしに授業の遅れが取り戻せるまで皆とは別の通信授業を受けることを提案してくれました。
でも、わたしが学校に行かずに家にいてばかりだと、お父さんもお母さんも心配します。
特に、お母さんはわたしがフェンテスの学校に慣れて、ちゃんと授業を受けられているのかをいつも気にしていました。
わたしはお母さんを心配させたくありませんでしたし、悲しそうに泣いているのを見たくもありませんでした。
せっかく笑えるようになったのに、幸せそうに家事をして、お父さんと笑っているお母さんを泣かせるようなことはしたくありませんでした。
だから、わたしは黙っていました。
だから、わたしは学校でいつも独りぼっちでした。
わたしが「ヒノイの子」と呼ばれるようになったのは、その頃からです。
最初は、わたしがヒノイで生まれたからなのだと思っていました。でも、それだけではありませんでした。
昔の戦争で、ヒノイはフェンテスに攻めてきた。
フェンテスは争う気なんか全くなくて、ただ平和に暮らしていただけなのに。
悪い神様に騙されて、いきなりフェンテスを攻めてきた。
ヒノイの人は頭が悪くて、ノーマの『力』だけに頼る乱暴者だ。
そんな風に言われるのです。
わたしは悔しくて、悲しくて、何度も言い返しました。
わたしの頭が悪いせいで学校の授業に遅れているのも、成績が一番下なのも仕方ないことです。
でも、ヒノイの友達は皆、親切で明るくて頭も良くて、お仕事と病気で大変だったお父さんとお母さんを、寂しかったわたしを助けてくれた大切な人たちです。
そんな友達を悪く言われるのは、とてもつらいです。
相談に乗ってくれた先生はわたしに、気にしないように、と言ってくれました。皆に、悪口はいけないことだとも言ってくれました。
でも、やっぱり、わたしを見てひそひそ悪口を言う人や、陰口を叩く人は学校に大勢いました。
わたしは独りぼっちの学校にいるのがつらくて、授業が終わると早く教室を出て、でもあまり早く家に帰るとお父さんもお母さんも心配するので、わざと遠回りをするようになりました。
――…そんな時でした。ある日の学校からの帰り道、いつものように遠回りをしたわたしは通りかかった小さな公園で、とても綺麗な花が咲いている花壇を見つけました。
フェンテスは緑が多いのですが、公園で遊ぶ子供はあまり多くありません。
ヒノイでもそうでしたが、フェンテスでは家の中で遊べることがいっぱいあって、ゲームをしたり動画を見たり、楽しいことがたくさんあります。
だから、わたしよりも小さな子供が親に連れられてならともかく、一人で学校に通うようになるぐらいの年になると、こんな小さな公園に来ることはほとんどありません。
だから、家の近所にこんな小さな公園があることも、こんなに綺麗な花が咲いている花壇があることも、わたしは初めて知りました。
あまりに綺麗な花だったので、わたしはお母さんにも見せてあげたいと思い、何本か摘んで持って帰ろうと花壇に近づいて手を伸ばしました。
「ガ――ガ、ザッ、ザザッ…シ、失礼…花を、傷つけるのハ、ヤめて欲シい…」
その時です。
ノイズの混じった低い声が耳に飛び込んできて、わたしは驚いて顔を上げて、そしてもっと驚きました。
わたしよりも大きな、お父さんよりも大きな、とても大きなロボットがいました。
もちろん、それが目に入っていなかったわけではありません。でも、あまりに身動き一つしなかったので、てっきり公園に設置された遊具か何かだとばかり思っていたのです。
「ご、ごめんなさい。もしかして、ここのお花はあなたのものだったの?」
「い、いイえ、…ガガッ…音声出力プログラムにerror…プログラムのアップデート…error、この旧式モデルへのアップデート対応期間は既に終了しテいまス…シ、失礼…こエが聞き取りづラいのは、許して欲シい…ワたシは、この花が…傷つけらレるのを、見たくなイ、ダけ…」
とても大きなロボットは目のように見える小さなランプをチカチカと明滅させながら、古いスピーカーを通して声を出しているみたいにノイズ混じりに言いました。
「ごめんなさい。わたし、お花がとても綺麗だったから、幾つか摘んでお母さんにも見せたかったの」
「おカあ…サん…、かぞクは、たいセつ…で、デも、わ、ワたシ、は、…ハ、花を…ま、守ル…」
「大切なお花を摘もうとして、ごめんなさい。でも、今度はお父さんとお母さんと一緒に、ここに来てもいい?」
「…モ、もチろん、…い、イつ、でモ…来テ、欲しイ…」
そこでロボットは一瞬だけ黙ってから、こう言いました。
「な、名前…」
「え?」
「名前ヲ、聞かせて欲シい」
「…あ」
わたしは、少しだけ泣きたくなりました。
わたしの名前をきちんと呼んでくれる人は、もうお父さんとお母さんだけだと思っていましたから。
「わたしの名前は――」
あまうみ様の『冷たくもあたたかな腕』からプロンプトをお借りしました
https://www.chichi-pui.com/posts/bfc47d24-3c01-42ea-858c-67783ae5b1a4/また、構図その他について以下の作品から影響を受けています
らけしで様の『私たちの英雄』
https://www.chichi-pui.com/posts/85d3e0e1-73ec-4c41-bbf7-2e747e1d3fee/はづき蓮季様の『贈り物』
https://www.chichi-pui.com/posts/7c4f8b71-0f7c-4c28-a9bc-65f7aa4f7bd1/forasteran様の『守ってくれてありがとう』
https://www.chichi-pui.com/posts/11301a98-059e-453f-a24a-d3a1391d07b8/猫黒夏躯様の『ヒノイ-フェンテス なかよし部 2』
https://www.chichi-pui.com/posts/e64fb571-59de-4b0f-a30f-fc8f16391772/グランシュライデのエンディング後の物語です。
全てがめでたしめでたしでは終わらない、目には見えない戦争の傷跡は時が経って薄れようとも消えることはない。
どんなに技術が進歩して文明が発展しても、根本的な人間性は数千年も前から変わらない。
であるならば、社会における少数派への抑圧は減ることはあっても無くなることはない。
学校のいじめもまたしかり。減らすことは出来ても根絶はできない。
だから、それは悪いことなのだと教え、声をかけ、見守る大人が一人でもいてくれれば――