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鬼謀其六

使用したAI Dalle
「...ち、陳平 ! 貴様 ! 」
項伯と項荘は絶句した。

いけしゃあしゃあと漢の重臣...それも項伯ら楚の使節団の応接代表として目の前にいる男、楚軍から逃亡して行方をくらましていた筈の男、陳平にである。

...

漢三年、楚漢戦争中盤における最大の激戦、滎陽の戦いは一種の膠着状態にある。

西楚の覇王項羽が率い天下最強を誇る楚軍二十万に対して、滎陽に籠る漢軍は五万足らず...いくら滎陽城の守りが固くとも、彼我の戦力差は隔絶してしまっている。

それでも尚、いまだ滎陽が落ちない理由は主に三つあった。

一つには、稀代の謀臣張子房と陳平が周到に構築した滎陽城の防御壁が極めて堅牢であった事と、二人がかつての秦の名将章邯の故智に倣い、糧道確保の為に建設した甬道を漢軍が死力を尽くして守り続けている事、

そして第三に、陳平が楚軍内部に毒蜘蛛の巣のように張り巡らせた離間の策...楚の諸将が漢に内通している...いう流言がじわじわと遅効性の毒が人体を侵食するかのように、項羽の猜疑心を刺激し、楚軍内部に疑心暗鬼を引き起こしつつあるからであった。

この時代の中国において、例え交戦中であっても国家間の使者往来は普通に存在する。

とは言え、楚軍としてはこの時期にわざわざ漢に使者を送る必然性は本来存在しない。しかし敢えて、漢軍に一時的な休息を与えてしまうことになっても項羽が使者を送ってくる理由を、張子房と陳平は正確に察知していた。

項羽は確実に、麾下の諸将に対して疑心を抱きつつある。疑心暗鬼の末に、信頼のおける一族を使者に立てて、少しでも漢の内情を探りたいのだ。

陳平としては、「それ」を待ち構えていた...と言ってもいい。

かつて張子房に語ったように、人に嘘を信じ込ませ、騙し、陥れる為の最良の方法とは、九割の嘘の中に巧みに一割だけの「真実」を混ぜて、致死量の猛毒を味だけは美味に調合してやることである。

人間とはその大多数が、見たいものだけを見て、信じたいことだけを信じる度し難い習性を持っている。人間という生き物の宿痾と言ってもいい。

陳平としては、項伯と項荘という道具をダシにして、項羽が元々見たがっているものを見せてやるつもりであった。

余分な言葉は必要ない。何しろ陳平自身が「楚を裏切り漢で厚遇され高い地位に就いている」...というのは嘘でも何でもなく、紛れもない「事実」であり、一面において「真実」なのだ。陳平としては、この場で「絵に描いたような裏切り者」としての己自身を曝け出してやるだけでいい。

その「事実」と「真実」を知った項羽が何をどう妄想しようと項羽の自由というものであり、陳平としては積極的に、かつ懇切丁寧に、その妄想が「項羽にとっての真実」として膨れ上がる手助けをしてやるつもりであった。

...そして、陳平が劉邦という男を高く評価しているのも、実はその一点なのである。

劉邦という男は、何の能もない...ように見えて、その物事を見る目...自他に対する認識力に関しては、陳平すら驚嘆するほどに平明に「あるがままの事実」を直視出来る不思議な力があるらしい。一方で、過ちを犯すことも多々ある男なのだが...誤りを犯した後にも、最高権力者である割には驚くほど自省もする。

陳平はこの離間の策を進言する際に、大胆にも劉邦本人に向かって項羽と劉邦の人物比較をやってのけているが、「今大王慢而少禮,士廉節者不來、然大王能饒人以爵邑,士之頑鈍嗜利無恥者亦多歸漢。」などと言われて、平然と言った男の言葉に耳を傾けている劉邦という男の神経は、不思議というしかない。
(言った陳平という男の図太さも尋常ではないが、後年王陵も面と向かって同じことを言っており、劉邦という男はこの種の批判...というか批評をされても怒りもせず、自らそれを認めて平然としている...という共通認識が当時から臣下の中で存在したものと思われる)

...

会談は最初から双方喧嘩腰であった。

無理もない。

何しろ、項伯と項荘にしてみれば楚軍から逃げ出した男が、よりにもよって漢の護軍中尉などという想像を絶する大出世を遂げ、しかも楚を裏切った良心の呵責など微塵も感じさせぬ憎々しげな微笑と共に、目の前で漢の代表者面をしているのである。

それだけでも腸が煮えくり返る思いをさせられている。

例え上っ面だけでも、友好的な雰囲気に等なりようがない。

慣れぬ外交の場に、それも副使などという大役で同席している周勃としては胃に穴が開きそうである。周勃としては、戦場で殺し合っている方がはるかにマシであった。

「..ち、陳平...貴様、どの面下げてここにいる。貴様には良心も羞恥心もないのか !?」
只でさえ若い項荘などは、陳平にこの場で斬りかからんばかりの形相であった。

勿論、陳平としてはそんな陳腐な「正論」に恐れ入るような殊勝さなど、微塵も持ち合わせてはいない。

内心では、(この低能が。そんな貴様らが名門貴族というだけでデカい面をしている楚軍だからこそ、俺は愛想が尽きて逃げたのだ。大体俺を排斥しようとしたのは貴様らの親玉本人ではないか)...とせせら笑っている。

楚の側が激昂すればするほど、陳平としては思う壺である。せいぜい「裏切り者」への「正義の怒り」とやらを存分に燃え上がらせた上で、御帰還を願いたい処であった。

「...これは項荘殿、一別以来、お久しぶりですな。未だ御若年故、無理からぬこととは存じますが、いまだ公の場での作法などもおぼつかぬご様子...そのような有様だからこそ、中原の者達に「楚人は冠を付けた猿」...等と嘲笑されるのではありませんかな ? それとも、それが名門項家の教える作法ということでしょうか ?」

陳平としても、せっかく着いた火には精々油を注ぎ薪をくべてやらねばならぬ。放火犯には放火犯なりの苦労と工夫というものがある。

さすがに、この陳平の言には、温厚な長者として知られる項伯も血相を変えた。

「陳中尉...と敢えて言おう。我が大王は卿の力を買っておられたのぞ。だからこそ我が楚に背いた司馬卬の討伐の任などもお与えになり、その功を以て都尉にも任じられ、多額の褒賞迄賜ったではないか。その大恩を被りながら、不届きにも楚軍から逃げた卿に作法など、どの口で言えた義理か。卿のような不義不忠の輩ほど大きな顔を出来るのが、漢の国柄か。それこそ、野蛮の極みではないか」

さすがに年長の項伯は項荘ほど取り乱しはしないが、内心の怒りは抑えようがないらしい。勿論、陳平としては項伯を怒らせる為に「項家」等という単語を持ち出したのである。

「項伯殿...肝心なのは、その後の事だ。忘れた...とは、よもや仰るまいな ?」
陳平としては、「その後の経緯」こそが、楚と項羽に愛想を尽かした決定的な原因である。

「私は一兵も損じることなく、説得を以て司馬卬を降した...そして、項王も私の功を認めた筈だ。ところが、その司馬卬が一転して楚に背き漢に帰順するや、逆恨みで私を罰しようとしたではないか。司馬卬の再度の反逆は私の責任ではない。項王自身の不徳が招いたことではないか」

「己の不徳を臣下の責任にする...そんな王に誰が忠誠を尽くすものか。だから私は不当な身の危険を避け、楚軍を脱出したのだ。しかも、項王から賜った褒賞を持ち逃げなどしていない。全て楚の陣に置いて我が私財とするような真似はしなかった。恥じるべき何ものもない。卿らこそ、己が王の度量の狭さと徳の薄さを恥じるがいい !」

(...ああ、だからこの男は漢において当初、金に困っていた訳か)
陳平の傍らで副使として控えている周勃は、陳平が漢の陣内で困窮した挙句に配下の者達から金品を受け取っていた理由を初めて知ったのであった。

周勃と灌嬰は、それを陳平が収賄を働いている...と思い込んで劉邦に直訴したのであるが、陳平としては劉邦が陳平に金を払う事をド忘れしていたので、仕方なく部下たちに頼んで生活費を集めた...というに過ぎない。

(...この男は、無一文で楚から逃げてきたくせに、ただ単にド忘れで悪意はなかったとは言え、しばらくの間金も払ってくれない我が大王に忠誠を尽くしていたのだから、妙な男だ。こいつが、我が大王に「惚れた」というのも、確かにその通りなんだろう...金に困ってるなら困ってるでそう言えばいいものを...変な奴だ)

周勃は、半ば呆れるような感慨と共に思った。

(...それにしても、舌先三寸の戦でこいつに勝てる者など天下広しと言えど子房殿位のものではないのか。項伯と項荘もとんだ貧乏籤だ。こんな化け物じみた奴との駆け引きなど、子房殿のような同じ類の化け物でなければ無理だろう....俺なら絶対に願い下げだ。戦で命をかけて戦う方が余程マシだ)

...

しかし、この後周勃はそんな傍観者めいた感慨に耽っていられなくなった。

陳平と項伯、項荘の...外交とは言い条、只の喧嘩...としか思えない応酬が続いた後、急に項伯が周勃にその矛先を向けてきたのであった。

項伯としては、一を問えば十倍にして言い返してくるような陳平を相手に舌戦を繰り広げていた処で埒が明かぬと思ったのであろう。

項伯が項羽から受けた密命は、まさに張子房と陳平が看破したように、漢は本当に楚軍内部に内通工作を行っているのか...という探りである。

そして項伯は、実際に漢の陣営内を訪れ、予想もしていなかった陳平という稀代の食わせ者...の姿を目の当たりにして、漢による楚軍内部への工作をほぼ確信するに至っていた。
(それ自体は決して「嘘」ではない。陳平が工作を行っていることは事実なのである。ただ一つ違う点は、「諸将」などという大物には工作していないという点である)

楚軍ではたかだか都尉に過ぎなかった陳平程度でも、漢に投降すれば護軍中尉...などという軍の最高幹部として厚遇されているのだ。現に、この場において陳平は正使として、沛の旗揚げ以来の最古参であり、劉邦の子飼い中の子飼いと言ってもいい副使周勃の上位者である。

そして、楚軍において項氏以外の諸将は確かに功績の割には恩賞が少ない...のも事実である。これでは漢の工作に転ぶ者がいても当然だ...と項伯は思った。

正確には陳平が、項伯をしてそう思い込むように手取り足取り誘導してやったのである。

この場における陳平という男の狡猾さと悪辣さは、嘘は一切言っていない...と言う点であった。理由はどうあれ、陳平は楚を裏切り漢では厚遇されている...という点に限っては何の嘘偽りもない。

嘘をつかずに他人を詐欺に嵌める、騙して陥れる人間というものを、周勃は初めて見た。そして思ったのだった。
(...何という悪党だ、こいつは。確かに嘘は言ってねえから、余計に始末が悪いわ。こんな野郎にかかっては、青二才の項荘や項伯みてえな人の好さそうな「善人」ではひとたまりもねえ...子房殿もそうだが、こんな悪辣な野郎が敵でなくて本当に良かったぜ。大王がそう仰るのも無理はねえ...)

...等と周勃が他人事のように思っている処に、項伯が唐突に周勃に矛先を向けたのであった。

「周将軍...先日の甬道の一角を巡る攻防において、卿の用兵は実に見事であった。まるで我が軍の進路を予め知っていたかのような見事な伏兵の用い方であったな。宜しければ後学の為に、卿が何故あのように巧みに我が軍の進路を予測した伏兵を用いることが出来たのか、お聞かせくださらぬか ?」

(ああ、何で俺に聞く ?)
副使と言っても所詮置物だ...俺には関係ねえ..とばかりに茶を一服していた周勃は思わずむせそうになった。

かと言って、陳平を介した楚軍内部の内通者からの情報によって、あの時は事前に楚軍の動きはわかっていた....等と、いくら口下手な周勃でも馬鹿正直に明かす道理はない。

ないが、かといって咄嗟の事とてどう返答すべきか、周勃は思わず返答に詰まった。

...そして、そんな周勃の表情を、項伯は静かに凝視している...。

思わず条件反射の様に、陳平に救いを求めるかの如く周勃は横を向いた...が、何とこの男はわざとらしくそっぽを向いているではないか。

(こ、この野郎...!)
周勃は、敵である項伯よりも味方であり上司である陳平に、怒髪天を突く思いであった。

(このくそ野郎、後で殴る。この茶番の後で絶対ぶん殴る !)
...とは思ったが、さしあたりそんな不毛な怒りはこの場においては何の役にも立たぬ。周勃は、この応接の前に陳平が言っていたことを必死に反芻してみた。

確か、こいつはこう言っていた筈だ...
(...俺は別に、卿が俄作りの策士や能弁家になることを期待していないし、そんな柄にもない真似をしろと命じる気はない。そこは安心しろ。卿は卿のままでいればいいのだ。いくら卿が口下手でも、俺たちの策の内幕をバラすほどの馬鹿ではあるまい。それだけ弁えていればいいのだ)

ありゃ、どういう意味だ...よくわからねえが、ともかくネタばらしさえしなきゃあ、俺らしくしてりゃあいいってことか ?

この畜生めが、こんな厄介ごとに俺を巻き込みやがって、後で覚えてやがれ...

散々悩んだ挙句に、周勃が捻り出した返答はこうであった。
「...べ、別に理由なんかねえ ! 只の勘だ ! 俺は散々戦の死線をぐってきて、戦の匂いって奴がわかるんだ。俺だけじゃねえ、漢の将軍は皆そうだ。あんたら楚の将軍達みてえな学はねえが、俺らは皆戦の匂いを体で知ってんだ。だから俺らは絶対にあんたらには負けねえんだ !!」

...言辞自体は堂々とした見事なものであったが...悲しいかな、周勃という男は言葉に詰まると、無残なまでの訥弁になるのであった...。

項伯としては一言で言えば「怪しい」という以外の感想が出てこない。

...勿論、陳平としては「それ」を狙ったのである。この武骨な男が如何にも、自分たちには後ろ暗い秘密があります...という体でしゃべってこそ、この場合は抜群の効果を発揮するのだ。
(周勃よ...卿はさぞかし怒るだろうが、この会談における最大の武勲を卿は上げたのだ。後で存分に称賛してやるし、大王にもそう報告してやるからな)

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