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別離其三

使用したAI Dalle
灌嬰が陳家に赴いた時、陳平はまだ生きていた。そして、その意識もまだ確かであった。

「...灌嬰...卿が直々に来たか...陛下の命か ?」

「ああ、そうだ。だが、陛下の命がなくとも俺は来るつもりであった」

灌嬰は人払いを命じ、二人きりで病床に伏した陳平に相対していた。

本来いくら朝廷の三公とは言え、灌嬰には太尉よりも上席にある丞相の私邸内の命令権などないし、陳家の家人たちも灌嬰の命に従う理由などない。しかし、この場合の灌嬰は勅使である。勅命として押し切った。

そして、何よりも陳平本人もそれを望むであろうことを確信していた。この稀代の頭脳を持つ男が、三十年近い年月「戦友」であった灌嬰に対して余人を交えては語れぬ言葉があろうことは、長い付き合いでよくわかっている。

「...周勃が引退し、これから俺が存分に腕を振るえる時が来た...と思っていた...しかし、それからわずか2か月足らずでこの様だ。政治というものをよくわかっておらん卿などに後を託して逝くのは甚だ不安ではあるが...これも天命だ。是非もない」

この男は死ぬまで、この憎まれ口と毒舌は直らんか。こいつの場合、そっちの方が余程不治の病だ...と灌嬰は思った。

「俺とて、丞相など本来やりたくないわ。俺は死ぬまで武人だ。卿のような悪知恵に長けた悪党でなくては天下の宰相など務まらんことは、卿との長い付き合いでよくわかっている」

これは憎まれ口ではなく灌嬰の本心であった。

漢帝国の歴代丞相職は、初代蕭何に始まり、二代目曹参(曹参は最初から相国)、三代目の陳平(王陵や周勃との同時任官)と継承されてきたが、王陵や周勃は例外として、蕭何・曹参・陳平はいずれも法律や政治行政に豊富な知識や経験を持っていた人間だ。

曹参は前線の武人の印象が強いが元は秦の役人上がりであり、更には漢帝国の相国に就く前に、藩国斉の相国として九年経験を積んでもいる。

「...灌嬰よ、次の丞相が卿とは限らぬぞ」
陳平は、意外な事を口にした。

「何だと ? 陛下が俺を差し置いて丞相に任じる人間など、朝廷にはおらぬぞ。俺の上位者と言えば、事実上引退している夏侯太僕(夏侯嬰)を除けば、卿の他は引退している周勃殿しかおらん」

文帝劉恒は即位以来、常に周勃、陳平、灌嬰ら劉邦以来の老臣たちを立てており、彼らの面子を潰して迄我を通すようなことは一度として行っていない。

今、灌嬰を飛び越えて丞相に任じられるような「大物」は一人もいないのである。天才的な数学の才能を持つ張蒼など次世代の逸材はいるが、灌嬰の持つ「格」に比べればまだはるかに「軽い」。

「...今、卿は自分でその答えを口にしたぞ...気づかぬか ?」

「夏侯太僕が今更政治の場に出る筈がない...まさか、既に引退している周勃殿の事か ?」

灌嬰は愕然とした。既に引退している周勃の丞相再任...など、全く想像していない。

「...今、卿が自分で言ったように、卿の本来の天分は武人なのだ。それは周勃も同じことだが...俺の死後、卿を丞相にしては、軍を率いる総帥がいなくなってしまうではないか」

「そして、それは陛下もよくわかっておられるに違いない...今我が漢には匈奴という大敵がある...その大敵を前にして、陛下は全軍の総帥たるべき卿を朝廷の中だけに置いておきたくないのだ...かと言ってあの不器用な周勃に丞相が上手く務まるとも思えぬのだが...実務については張蒼に補佐させれば何とかなろう。...恐らく、それが陛下のお考えだ」

「...やはり、問題は匈奴か」

「...ああ...確言は出来ぬが....あと一度は大きな戦をせねば収まらぬかもしれぬ...その時は灌嬰よ、卿に全てを託すしかない...あの白登山から約二十年...我が漢の騎兵も往時とは比較にならぬほど増強された....それでも匈奴に対して決して優勢とは言えぬ...それでもその時には今ある戦力で戦わねばならぬ...頼むぞ灌嬰...」

「その点は俺に任せておけ。我が騎兵の現在の力は、卿よりも俺の方がよくわかっている。決して匈奴に負けはせぬ。戦については俺を信じろ」

灌嬰には、自信があった。二十年前の、あの白登山の屈辱は灌嬰とて決して忘れていない。忘れることが出来ない。

だからこそ、あれから二十年の間、漢帝国は営々と騎兵の育成と増強を図り続けてきたのだ。

「...その言葉、これから死ぬ俺には何よりの手向けだ...ありがたく受け取っておくぞ...だが、やはり俺の懸念は朝廷内...廟堂にある....灌嬰よ、これから俺が言い残すことをよく聞け。そして決して忘れるな」

「...灌嬰、今言ったように、次の丞相は恐らく卿ではない...陛下は恐らく周勃を呼び戻そうとなさる筈だ...だがな灌嬰、これは卿に特に頼んでおくが...卿の口から周勃に伝えてくれ...例え陛下が周勃を再度丞相に任じようとなさっても、決して受けてはならぬ...如何なる口実を設けてでも辞退せよ...それを周勃に伝えてくれ」

「何だと !?」

陳平の言葉は、灌嬰の想像を絶するものであった。

「当たり前だが、この事は決して陛下には言うな。陛下には秘して卿の口から周勃に伝えるのだ。それが俺の遺言だと、周勃には言え」

「何故だ、理由もわからずそんな大事を伝えることは出来ぬぞ」

「...当然だ、理由は今から言う...そして、その理由は...卿にとっても決して他人事ではないから、よく聞いておけ。よいか、今の陛下は我ら高皇帝(劉邦)の御代から仕えている老臣達を頼みになさっておられ、それ自体は決して嘘でも演技でもないが...同時に俺たちに対してはこう思っておられるに違いないのだ。"煙たい奴ら"だと。いつかは俺や卿ら(俺はもう死ぬが)老臣達に気兼ねすることなく己の思うが儘に政治を行いたいのだと」

死に瀕している筈の陳平の口調に、異様な重さが加わったように灌嬰には感じられた。

「...それ自体は陛下のように、偉大な創業の君主(この場合は劉邦を指す)の後を継いだ君主の心に普遍的に起こりうる心理なのだ。陛下は一見温和でおとなしそうに見えるが、実は決してそれだけのお方ではない。そこは、あの高皇帝の御子なのだ。そこを見誤ると、卿も下手をすれば無残な最期を迎えることになりかねんぞ」

「...陛下が実は心の奥底では、俺や卿、周勃殿を憎んでおられるというのか !?」

灌嬰は、陳平の言葉にほとんど呆然とする思いであった。

「...早合点するな、灌嬰...そういう意味ではない...やはり卿にはその辺の人間心理の機微というものがわかっておらぬ...そして、周勃もだが...だからこそ、俺は周勃に丞相再任の話があっても受けるなと言い残すのだ」

「...この場合、陛下の心理はある意味矛盾した状態にあるのだ...陛下が卿や周勃を頼みにしているのは事実で、先ほども言ったようにそれ自体は陛下の嘘でも演技でもないのだ...でなければ周勃を呼び戻そうなどとはなさらぬ。だが、同時に陛下は俺や卿らの存在自体に圧迫感と息苦しさを覚えてもいる...これもまた事実なのだ。人間の心とはそうした矛盾を普通に抱えているものなのだ」

「...よいか、ここからが重要だ。俺のような「悪党」であれば、そういう陛下の心理を正確に察知し、身の処し方、陛下への接し方、そういった処世術を過不足なくこなすことができようが、そんな芸当は周勃のような「善人」には無理なのだ。実際、俺と左右の丞相であった当時も、周勃には危うい処があった。実の処、俺は周勃が丞相を辞して隠居した時、周勃の為に安堵したのだ。...これで、あいつも晩節を誤ることなく、無事に生涯を終えることが出来よう...と思ってな」

「俺がいれば、周勃がそんな不器用な奴であっても横から何とか助けてやれなくもないが...俺が死んだ後、あの周勃が柄でもない丞相などという立場で、只でさえ老臣達に複雑な心理を抱えている陛下と関係を破綻させずに上手くやっていけるとは...到底思えぬ」

「...それを思えば、周勃の為にも、そして陛下の御為にも...今更周勃が丞相などという大役を引き受けて良い事は何もないように思われる。...周勃はもう十二分に漢の為に尽くしてきた...そのあいつが今更、晩節を誤るようなことがあっては、さすがに不憫だ」

灌嬰は黙って陳平の言に耳を傾け、知能を振り絞ってその意味を咀嚼すべく努めていた。

こういう次元の話になると、やはり陳平の思考の幅と奥行きにはとてもついていけない。陳平という男は、人間という生き物の「業」そのものへの観察力と洞察力という点では、余人の追随を許さない。

稀代の天才戦略家であった張子房でさえ、人間観察力という一点では陳平に一歩を譲るところがあった。

「...だが、陳平、卿の言う通り「善人」の周勃殿は、卿の遺言とは言えその言葉を聴かぬかもしれぬぞ...何しろ忠義一徹の人だ。陛下から強く望まれれば、あの人にはそれを断ることなどできまい」

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