「大カエサルは」
マルクス・ヴィプサニウス・アグリッパは、嘆息するように呟いた。
「こんな形で君とキケロが相対するとは、想像もしなかっただろうな」
とりあえずアグリッパにとって、暗殺されたカエサルは「大カエサル」、目前の美少年は「カエサル」である。
もう「彼」を「ガイウス」とも「オクタヴィウス」とも呼ぶ訳にはいかないことを、アグリッパは完全に理解している。「彼」を最初に「カエサル」と呼んだのもアグリッパだ。
そして、アグリッパが率先して彼を「カエサル」と呼び続ける理由を、「彼」の方でも完璧に理解していた。
この一見ひ弱な美少年が、想像を絶する深謀遠慮の持ち主であることを、アグリッパは既に知っている。その頭脳の回転の仕方、というか奥深さは、まだ同じく十八歳のアグリッパにしてみれば恐ろしくさえある。
「全くその通りだな。義父上が生きておられればこんな不愉快な思いをしなくて済んだ」
その非現実的なまでに美しいカエサルは今、実に不機嫌であった。
わからなくもない。
何しろ、とりあえず当面は味方に引き入れるしかないキケロとは、若きカエサルにとっていうなれば父の仇に近い。キケロは直接的にカエサル暗殺に関わってはいないが、暗殺者達とは完全に政治的な同志なのだ。
常に冷静に見えるカエサルだが、大カエサルの暗殺者達に対する憎悪と殺意が並々でないことを、アグリッパはよく理解していた。その観点から言えば、カエサルにとってキケロは完全に復讐の対象範囲である。
しかし、今のカエサルにとって当面、キケロを敵に回す訳にはいかなかった。
そこで若き二人は内心を押し隠して、キケロ邸を訪問し、美辞麗句の限りを尽くしてキケロの歓心を買い、その帰路の途中という訳なのだった。
常に冷静沈着なカエサルも、アグリッパと二人だけの時は比較的、内心の色々が露骨に出る。
ともあれカエサルとアグリッパが、仇の片割れであるはずのキケロと連携せざるを得ない理由の第一は、亡き大カエサルの副将だったマルクス・アントニウスが完全に若きカエサルの敵であることが明白になったからだった。
アントニウスはあろうことか、大カエサルの遺言によりカエサル・オクタヴィアヌスが相続すべきだった大カエサルの遺産を丸抱えに横領してしまったのである。
その意図は明らかだった。
カエサルを大カエサルの後継者とは認めない、自分こそが大カエサルの後継者だという意思表示に他ならない。まだ非力な十八歳の若きカエサルには、ローマに帰国して早々の試練だった。
ただ、どうもこの若きカエサルはある程度予想していたらしい。
という以上に、元々このカエサルの「息子」はアントニウスに好意を抱いていなかった。
彼はアグリッパにはこう言った。
「そもそも義父上が暗殺されたきっかけは、一つあの男が作ったようなものだ。アグリッパは、パルティア遠征決定前の元老院で、あの男が何をしたか知っているか?」
「いや、知らない。知るわけがなかろう、何のことだ」
「あの男は義父上に王冠を捧げようとしたんだ。ただでさえ元老院の奴らは義父上が王位に就くのではないかと恐れていた。勿論そんなことは義父上もよくわかっていたから、即座に退けたし、そのことを公式記録にも書かせた。しかし、あの一件が元老院の暗殺者共に一つのきっかけを与えたことは間違いないんだ。そう思えば、アントニウスという男は義父上を殺した片割れのようなものだぞ」
「義父上がやろうとしていたことに、王冠なんか必要なかったんだ。それをあのバカは理解しようともしなかった。そんな軽率な男だから、大した思慮もなく僕たちの敵に回るだろうこともある程度は予想していたさ」
「それになアグリッパ、どうせ義父上の遺産だけでは、遺言状にあった市民への財産分与を行う為には全く足りなかったに違いないんだ。アントニウスの奴がこの程度で僕たちの邪魔ができたと思っているなら、奴にはそう思わせておけばいい。僕たちは別の方法で、義父上の遺言を遂行できる方法を考えよう」
「そんなことを言っても、大金が必要な事だぞ。ローマ市民全員に金を配るんだ。どうする気だカエサル」
アグリッパの心配顔をよそに、この絶世の美貌を持つカエサルはさらりと言ってのけたのだった。それこそ大カエサルの後継者にふさわしいことを
「勿論、借金して回るんだよ。義父上の知人、友人を片っ端から訪問して」
「...」
「あの日」以降、アグリッパは時々この不思議な頭脳を持つ親友の思考についていけなくなる時がある。
こんなことでいいのだろうかとも思う。
大カエサルはまさか自分が暗殺されると思って自分をこの若き後継者につけた訳ではあるまい。
しかし、今となってはまるで天の配剤か、神々の采配であるかのように、自分はこの若きカエサルの補佐役であることが宿命づけられてしまっているらしい。
そのことに全く不満も疑問もないのだが、自分はこの頭脳についていけているのか、足手まといではないのかという自責の念は常にあった。
「....ありがとう、アグリッパ」
不意にそんな言葉が降ってきて驚いた。いきなり何を言っている。この主君は
「君があの時僕をカエサルと扱ってくれたからこそ、今僕はカエサルでいられる。旧カエサル派の皆もカエサルとして扱ってくれる」
あの時とは、大カエサルの遺言状が伝わった時のことだろうか。大カエサルの死を、その絶望的な現実を軍団の皆が受け入れられてはいなかった。そんな時に伝わった遺言状の内容。
「ガイウス・オクタヴィウスを養子とし、彼はカエサルの名を継ぐものとする」
万座声もなく静まり返る中、末座のアグリッパが「彼」に向けて最初の声を発したのだった
「...カエサル」と
それ以降、確かに皆がまだ正式に養子縁組手続きも済まない「彼」を「カエサル」と呼んでいる。いつの間にかそうなったのだった。
アグリッパに深い意図があったわけではない。
だが彼の親友であり主君はその重要性、政治的な意味を完璧に理解していたのだ。
あの瞬間、彼は「カエサル」になったのだ。