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皇后娘々薨去

使用したAI Dalle
「皇后娘々危篤」
貞観十年七月二十八日のことである。

皇帝李世民が後宮に駆けつけた時、最愛にして糟糠の妻、皇后長孫氏は既に息が絶えなんとしていた。

彼女が病の床に伏してから約二年、日に日に弱っていく妻を見るにつけ、さしもの名君と謳われた李世民も、政務に精励することが覚束ない日が続いていた。

しかし、観音婢(長孫皇后の小字)はまだ四十にも届かぬ若さではないか。

病など静養しておればきっと彼女は立ち直るに違いない...

...

世民は現実から目を背けるようにして、妻の病の深刻さから敢えて逃避するような日々を重ねてきた。しかし、世民の願いも空しく、その「時」は遂に訪れようとしていた。

最愛の妻、糟糠の妻、という表現すら、世民にとっての長孫皇后を表すには生易しく思われる。

彼女を失った時、自分は果たして正気を保ってられるのか。

「名君」であり続けることが出来るのか、世民には想像することが出来ぬ。

そもそも「貞観の治」と謳われることになる大唐帝国の繫栄は、全て彼女との二人三脚によって築き上げてきたものなのだ。

十三歳で結婚してより、観音婢は常に朕の側にいた。観音婢なくてしての朕などそもそもありえぬのだ。

しかしその最悪の事態は今、李世民を圧し潰すように起きようとしていた。

後宮に駆け込んでいく世民の脇で、既に後宮の回廊で泣き伏している侍女たちが大勢いた。

ふざけるな

観音婢はまだ生きている、死んでおらぬ

何を泣いている

世民は彼女たちを撫で斬りにしてやりたい衝動にも駆られたが、今の彼はそれどころではなかった。

皇后の寝室に駆け込んだ世民を数人の女性たちが迎えた。
「皇上!」
「皇上!」

彼女たちを突き飛ばすように皇后の寝台に駆け寄った世民だったが、瀕死の皇后を一人の女性が支えていた。

前朝である隋の皇女...即ち暴君として名高い煬帝の娘であった楊氏である。

後宮の頂点に立つのは勿論皇后なのだが、楊氏は前朝の皇帝の娘、内親王としていわば別格のような存在であった。

本来ならば皇后長孫氏にとっては強力なライバルであり、中国の歴史上そのような二人が血を見る惨劇を引き起こしたことなど無数にある。

しかし長孫皇后は後宮の女性たち全てを温かく包み込み、嫉妬など微塵も見せることなく、妃たちが産んだ庶子ですら分け隔てなく愛し、全ての妃たちから慕われていた。歴史上、稀有な事である。

楊氏もまた例外ではなく、長孫氏を姉のように慕い、後宮の序列を乱すような言動は聊かもなかった。

...後に世民は知ることになるが、皇后は楊氏に、皇太子である李承乾に関する重大な一事を託していたのだった。

さすがの世民も、楊氏だけはむげに寝室から追い出すことは出来ぬ。

「...皇上! 娘々が....!」
楊氏に抱きかかえられた長孫皇后の顔に既に血の気はなく、その朱唇からは一筋の鮮血が滴り落ちていた。吐血していたらしい。

その血を見ただけで、千軍万馬の中を疾駆してきた筈の軍人皇帝李世民にして、動転し、正気を保つことができなかった。
「観音婢! 気を確かに持つのだ !! 朕がわかるか !!」

「...皇上...」
既に死相が明らかな皇后の目が薄く開いた。

「朕はここにおるぞ ! わかるか観音婢 !」

体はまだ温かい

観音婢が死ぬ事などあってはならぬ、ある訳がないのだ

歴史上、これほど優れた皇后がいたか

いる訳がない

遠く漢朝の陰麗華や馬皇后ですら、観音婢には遠く及ばぬ

それほどの皇后が、この若さで死んでたまるものか

「...房玄齢」
皇后の口から、出た言葉は意外なものであった。

秦王時代から世民を支えてきた名参謀の名である。

「な、何だ...房玄齢がどうしたのだ」
世民は動転の余り、皇后の言葉の意味を理解できなかった。

「...皇上...房玄齢は謹慎にして皇上に仕えて長く、大事を託するに足る者です。その直言、時に御意に染まぬ事もあるかと存じますが、その言は是全て皇上と朝廷への忠義の心より出たものでございます。決して玄齢の如き忠義の者をお側から退けてはなりませぬ。...これは臣妾の遺言としてお聞きくださいませ...」

皇后は決してあらぬ譫言を口にしたのではない

最早己の死は避けられぬと覚悟の上で、皇后として皇帝に対する公的な遺言のつもりであるらしかった。

...世民は絶句した。

彼女は、この妻は、最後までそういう女性なのだ。

「わ、わかっている ! そなたがいつも言っていたことだ...わかっているからもうしゃべるな! 」

しかし、常に貞淑にして控えめだった皇后は、この時ばかりは夫の言葉を無視して言葉を続けた。
「...臣妾の実家、長孫家は皇恩を賜り、皆高位についております....誠にありがたきことにございますが、皇上におかれましては外戚に例え爵位や封土をお与えになりましても、決して廟堂における発言力をお与えになってはなりませぬ」

「遠く漢朝の昔...外戚が専横を振るい、遂には朝家を簒奪するに至った故事を、決してお忘れくださいますな」

「..わ、わかっている、わかっているとも...だから...」
世民にはもう、死にゆく妻をただ抱きしめていることしかできなかった

「...臣妾の陵墓は、なるべく自然の地形をそのままに、副葬物などは土器を用い、決して華美にしてくださいますな...臣妾の為に無用の工事を起こし、民百姓を苦しめてはなりませぬ....」

「娘々...!!」
楊氏が耐えられずに泣き崩れた。

長孫皇后は、瀕死の体のどこにその力が残っているのか、ひたすら言葉を続けた。
「...願わくば賢人に親しみ、小人を遠ざけてくださいますよう...そして忠臣の忠言に接し、奸臣佞臣の讒言を用いてはなりませぬ」

「民の労役を減らし、無用の狩猟をおやめになり...」

...世民の腕の中で、急速に皇后の力が失われていくのが、世民にはわかった

「....さすれば、臣妾は死すとも九泉の下で思い残すことはございませぬ....」

世民は最早、嗚咽して皇后を抱きしめつつ「我知道! 我知道!」と繰り返すことしか為す術を知らぬ

「....二哥」
世民を皇上と呼び続けた皇后が、二哥と呼んだのはいつ以来か。ともにまだ少年と少女だった頃以来か

「....二哥が病に伏せておられた時...」
世民には皇后がいつのことを言っているかわからなかった。

「...二哥のお側にあって臣妾は、常に懐中に毒薬を秘しておりました...二哥にもしもの事があった時は、臣妾は即座に自害して果てる覚悟でございました...」
「観音婢!!」

そうだろうと世民は思った。この妻はそういう女だ。

あらゆる意味において覚悟が常人とは違う女だ。

「....臣妾、臣妾は....」

「九泉の下まで二哥のお供をして...生きて呂雉(西漢高祖劉邦の妻呂氏の事)の如き過ちを犯したく....なかった....」

世民の手の中から、白い手が崩れ落ちた。

次の言葉はもうなかった。

李世民は、己の半身が永久に失われたことを全身で知覚していた。

貞観十年七月二十八日、長孫皇后薨去、享年三十六歳。

諡号を文徳順聖皇后と言う。

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