千古第一賢后
(彼女が皇后に冊立されたのは26歳なので、18歳時点の彼女は秦王妃)
表立って史料には書き残されていませんが、名君李世民の「貞観の治」も彼女の補佐に拠るところが大きかったと思われます。
彼女の著書である「女則」は散逸して現存しておらず、深く学問を修め歴史に精通していたらしい彼女の著作が残らなかったことが残念です。
古今の女性の歴史上の事績を論じ、女性(特に権力に近い地位にある女性の)のあるべき姿を子女に教育する為の書物だったと言われています。
同じく賢后と言われる東漢顕宗明帝皇后馬氏に対してすら、長孫皇后は批判的意見(特に一族への甘さに対して。西漢時代の馬氏一族先祖が犯した大逆事件を歴史記録から抹殺すべく、漢書の著者班固に働きかけたことがある)を持っていたことが知られており、彼女がどんな歴史論を自著で展開していたのか、非常に関心があります。
己は決して呂雉(西漢高祖劉邦皇后呂氏)の過ちを犯してはならぬと、夫世民に先立たれた時には自身も即座に自決して後を追うべく毒薬を常に携帯していたとも伝わりますが、さすがにそこまで行くとやり過ぎ感も。
ここまで徹底して己に厳しく、優れた見識を持つ皇后が呂后の如き過ちを犯すとは思われず、これほどの女性ならば寧ろ、夫の死後も皇太后として息子(高宗李治。優柔不断だったと伝わる)の後見をしていた方が余程、世の為人の為であった筈ですから。
しかし世の常ですが、こういう人に限って長生きしない...この人が長命していれば後年の武則天による簒奪は起きなかった可能性が大です。
呪文
入力なし