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典厩殿

使用したAI Dalle
川中島で奮戦する武田典厩信繁のイメージです...んが、月代は剃ってくれませんね、どうも。
(ただ、月代が事実上ルール化するのは江戸期以降なので、戦国の武田武士たちが月代を習慣化していたかどうか。兜を被ることが日常化していれば、剃っていただろうとは思われますが)

さて、日本では官職の唐名が、そのままその人の代名詞になることがあります。

典厩殿...と言えば武田信繁、黄門さま...と言えば水戸光圀という感じで

勿論、江戸期には普通に信繁や光圀以外に、現役の「典厩殿」や「黄門さま」がいましたから、別に二人に限って使われていた訳ではありませんが。

ちなみに、江戸期において武家の「黄門様」は、水戸家の当主であるよりは尾張紀伊両家の当主を指すことの方が多いのが実情でした。

というのは通常、従二位権大納言(唐名は亜相)を極官とする尾張紀伊両家、正三位権中納言(唐名は黄門侍郎。略して黄門)を極官とする水戸家...とは言われるものの、官位の昇進速度として三家ともその極官に到達するのは結構藩主の晩年であることが多かったからです。

光圀に至っては、黄門に昇進したのは何と隠居後です。
(アニメ蒼穹のファフナーの脚本でも知られる小説家冲方丁は、それを綱吉の嫌がらせとしているが誤り。光圀藩主時代には尾張紀伊両家当主の官位が権中納言に留まっていたから、自然水戸光圀は参議(唐名は宰相。右近衛中将との兼任の為、宰相中将殿とも呼ばれた)のままだっただけの事。序列として尾張紀伊両家に並ぶ形(特に同世代の紀伊光貞に対して)になる光圀の権中納言昇進はありえない。これを綱吉の嫌がらせとするならば三家への嫌がらせであって、光圀個人に対してではない)

三家藩主の生涯を通じて、概ね「尾張黄門殿」「紀伊黄門殿」「水戸宰相殿(水戸家当主は基本、参議に右近衛中将を兼ねるが官職としては参議の方が格上である為、宰相殿と呼ぶ)」である期間の方が長かったのです。極官に到達しないまま死亡した三家の当主も歴代大勢いました。

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